江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)313
江戸時代の庶民社会は、困窮する悲惨な社会であったか?
幕末維新期は激動の時代との認識が浸透している。確かに、政権が大きく替わったことから、激動と推測されるかもしれない。しかし、江戸庶民から見ると、明治初期(六年) 程までは、江戸時代の延長のようなものであった。寄席にはなんと年間延べ150万人、見世物にも100万人もの人々が押しかけている。祭りといえば町中総出で盛り上がり、花見や開帳、縁日、と庶民の楽しみは尽きない。そうした姿からは不思議なことに、幕末の緊迫感というものがあまり感じられない。官軍の江戸入りで、下手をすると、江戸の町が火の海になったかもしれない時局にも、庶民はさして動揺する気配もなく、普段のペースで生活し楽しみを求め続けていたのである。
近年、江戸時代の見直しが進められ、明治以降より豊かで自由な時代であったとまで評価されそうである。明治新政府は、自分たちの正統性を示し、欧米流の近代化などを国民に浸透させた。そのために、幕末動乱期のいい加減な美談や評価をまかり通させ、今日へと繋がる富国強兵と経済・軍備の強化を進めた。
幕府を倒したものの、その後の展望や理想の無いクーデターは、藩閥政府が国の中枢を独占しただけのことであった。武士による明治維新であったにもかかわらず、明治維新で武士の待遇は良くなったであろうか。しっかりと恩恵を得たのは、廃藩置県などを経て残ったのは長州や薩摩なとの一部の武士が残るだけであった。幕府の支配から変えるため、明治政府は「学制」「徴兵制」「地租改正」の三大改革を実施した。これらは、日本の近代化に大きく貢献し、国を豊かにしたとあるが、庶民の生活が良くなり、幸福になったという評価を目にしたことがない。
三大改革は、江戸時代の庶民の生活感覚からすれば異なるもので、負担が大きく反発が多かった。そして、国民の大半を占める庶民は、江戸時代より幸せになったであろうか。人の幸せとか幸福などは、個人の主観的な感情によって判断されるもので、評価は難しい。評価は個人の価値観などにより、金銭的・物質的な豊かさ、健康で長生き、円満な人間関係など多様である。そのような評価を総合する判断を、日本人ではなく第三者の外国人の観察から見てみたい。
幕末に日本を訪れたブロイセンの使節・オイレンブルクは、「ほかのアジア人たちは、生活のためにやむを得ず仕事をした後では、何時間もしゃがみこんで煙草を吸い……または完全に無感覚に空を眺めているのに反し……日本人の休息は常に活発なものである。活発なことを好むことは、確かに生活力、若々しい精神、さらには高い文化の可能性を証するものである。年齢により、また身分によりそれぞれの娯楽があり、その魅力は精神の鎮静や弾力、熟練などを発達させることにあるのである」と、日本人の遊びに対する積極性を高く評価している。このパワーこそ、人生における様々な困難を乗り越えて行く原動力と言えるだろう。本当に大切なのは、物質的な満足ではなく、自分が楽しい気分でいられる遊びを知っているかどうかということである。イタリア使節のアルミニョンは 「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は、ほかにないといえるだろう」と書き残した。
人の幸せを物の豊富さではないことを指摘したタウンゼント・ハリスの言葉は、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、裝飾的なものに目をむける 裕がないからである。それでも人々は楽しく暮しており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに、家屋は清潔で、日当たりもよくて気持がよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」とある。
また、カッテンディーケは、「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純ぎわまるものである」と。豊かさとは、物資的なもの、地位などの身分に求めるものではないこと。このように記すと、禁欲的で欲望の無い貧困生活を奨励しているように見えるでしょう。ただ生活しているだけで幸せだろうか、生きがいの無い、奴隷生活ではないかと言えそうである。実際、江戸時代の百姓は、重税で酷使され、不平等で自由もなく人権無視の社会などの悪評をまことしやかに風潮する人もいる。
江戸時代の八割を占めた百姓、本当に困窮する日々を送っていたのであろうか。二十一世紀になっても引き継がれている、民俗芸能や祭りに地域の行事、これらの大半は江戸時代から継承されたものである。江戸時代の担い手は誰であったか。幕府や藩主などによるものではなく、村では百姓、町では町人であった。困窮していた百姓たちが自分たちで資金を提供していたことになる。食うや食わずの百姓が祭りや歌舞伎などを行なうなんて、不可能に近い。そんな時間やお金があれば、食糧生産に資する活動をするに決まっている。江戸時代の百姓には、祭りや歌舞伎などを楽しむゆとりがあったのだ。
例えば、上三原田(群馬県渋川市赤城町)の歌舞伎舞台(回り舞台)が残っている。こう言ったら失礼であろうが、上三原田は平凡な村であり、幕府などから特別注目される地域ではない。建設されたと推定されるのは文政二年(1819)頃と伝えられている。歌舞伎舞台を造るにあたっては、村にはそれ以前から歌舞伎に関心があり、その準備が不可欠である。先ず、農村歌舞伎なので、衣装・小道具まで全て百姓たちの自前であり、役者も台本も運営も賄っていた。
現在は、地元伝承委員会による舞台操作技術の伝承と古典芸能保存会による地芝居の復活により、歌舞伎が公演されている。また、国重要有形民俗文化財(昭和35年6月9日)指定され、文化庁国指定文化材等データベースの解説文によれば「文政2年(1819年)創建とされるこの舞台は、桁行30尺5寸、梁間21尺の寄棟造り茅葺の建物である。ガンドウと呼ぶ両壁面及び背壁面が外側にアオリ倒れて舞台両脇及び舞台奥を拡張する構造をもつ。また、本舞台の回り舞台の中に、昇降舞台があり、引舞台の装置を有し、さらに上の二重を屋根裏に吊り上げるフライングの機構も持つ。小規模ながら近代劇場の舞台機構に相通じる機能を具備しているのは特筆に値する」とある。
他にも現在残っている農村歌舞伎に、檜枝岐歌舞伎(福島県南会津郡檜枝岐村)、小鹿野歌舞伎(埼玉県秩父郡小鹿野町)、中山農村歌舞伎(香川県小豆郡小豆島町)の日本三大農村歌舞伎がある。このような百姓達が楽しんだ農村歌舞伎は、けっして一部の村で催されていたものではない。小豆島では、小さな島内に、最盛期は30を超える歌舞伎舞台があり、600人ほどが農村歌舞伎に関わっていたそうである。