豊かな庶民社会を証明する農村

江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)315

豊かな庶民社会を証明する農村

・現在に残る民俗芸能は、庶民社会の賜物

 民俗芸能、郷土芸能等とされる芸能は、その大半が江戸時代に生まれ、明治・大正・昭和・平成を経て令和にいたっている。どのくらいあるかを調べてみたが、多すぎて把握できないくらいありそうだ。文化庁による「重要無形民俗文化財と記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」(令和7年4月1日現在)から数えると、千件ほど数えられている。たが、文化庁がチェックしたのは、代表的な芸能であり、江戸時代にはそれ以上の芸能があったと推測される。

 明治になってから百五十年以上経過するのに、なぜ、新しい郷土芸能が生まれにくいのであろうか。というのも、江戸時代には、庶民が貧しいながらも自分たちが共同で催し、楽しみを共有し、受け継いできた。現代のように、国や公共団体の援助や指導を受けていたのではない。幕府や領主などからの経済的援助はもちろん無く、逆に制限や禁止を受けていた。それでも庶民が芸能を行なえたのは、庶民社会に武士(幕府や領主)が直接関与しなかったからである。なお、西欧では所領内に領主が住み、村や町を直接支配しており、江戸時代前には日本も在地領主が生活や労働など全てを管理、支配をしていた。

・外国人も書く庶民と武士の社会分離

 カッテンディーケは、「日本の社会は、元来、二個の部分に大別することができる。その第一に属するものは武士、また第二に属するものは武士でないもの、すなわち町人である」と。さらに「日本の下層階級は、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享有している。そうして彼等の権利は驚くばかり尊重せられていると思う」とまで書いている。

 町や村が自主的に運営(経済活動)されていたことは事実で、幕府や領主などの直接的な関与は限定されていた。村や町の独自性は、「村入用(むらにゅうよう)」「町入用(まちにゅうよう)」の記載内容から認められる。村入用とは、年貢以外の村民が負担する費用で、村の存続に資する管理運営(村行政関連の諸費用)、村が共同体として生産や生活を維持するために必要な諸費用(道や用水等の普請費用)である。町入用とは、町の維持運営に必要な経費で、村入用に対応するものである。なお、その費用、村入用では全体で賄われたが、町入用では地主・家持などの町人が負担し、裏店子(長屋の住民)に負担はなかった。

 幕府や領主の財政は、年貢米収入を中心にしていた。そのため、農村社会の動向に関心を向けていたが、村を統治する施策や経験が不足していた。そのため、年貢を増やす、農業生産の向上に資する施策、新田開拓などを勧めた。しかし、農業、農村を振興させたのは、農民自体の力であった。その力添えとなったのは、「農書」で、農書の成立は、幕藩領主の年貢増収を受けての農民たちの対応の所産であろう。そして、農書はいわゆる学問書ではなく、実際労働する農民との関わりなしには成立・証明されない。農書が農村に浸透することで、村全体としての文化的・教育的水準向上に貢献したことも無視できない。

・恵まれた自然環境と農民の生きがい

 わが国の農業発展は、幕府・領主に頼らず、村民が共同体として自ら農業施策を展開し得たことによる。それに加えて、日本の農民が西欧の農民に比べて、農業に熱意が高かったのは、気候が大きく影響している。イタリアのローマは北緯41°53′35″で、日本の函館市役所あたりになる。日本は、西欧に比べ生育する植物の種類が異なるだけでなく、その数は桁違いに多く存在し、その上降水量が多い(ローマ878 mm・函館1,441 mm)、関東地方ではローマの二倍以上ある。日本の農民は、気候・気象に恵まれていて、多様な作物が栽培可能であった。多種の作物を栽培することは、強制されれば大変な苦痛であるが、自ら進んで行なえばそんなに面白いことは無い。それも、農作物の栽培知識を自分のものにし、さらに品種改良、増産へと高度の作付けと意欲的に試みることで、栽培の面白さ、収穫の喜びが得られ、生きがいになったと。確かに、農繁期の重労働は苦しく、想像を絶するものがあるかもしれないが、その作業を乗り越え、それに優る満足感を得ていたのであろう。

 現代でも、江戸時代の農民の年貢は重く、悲惨な生活をしていたとの認識が浸透している。はたして、本当に厳しい状況に置かれていたのであろうか。そこで再び、外国人の観察を見てみよう。フォーチュンは、「農民は大土地所有者の農奴にすぎず、重税を課され、まったく劣悪な状態に置かれていると私たちは教えられている。私はこのような言明を否定できる立場にあるわけではないが、この国の多くの地方での個人的観察からして、農民とその家族は快適な外見の、よい家に住んでいるし、いい着物を着、十分な食事をとり、幸せで満ち足りた顔つきをしていると断言することができる」と述べている。またハリスも、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、裝飾的なものに目をむける裕がないからである。それでも人々は楽しく暮しており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに、家屋は清潔で、日当たりもよくて気持がよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」とまで評価している。

 さらにオールコックは、「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って, 非常なゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるをえなかった」と。

・村の自治と自由は重税にも耐える

 年貢について観ると、「年貢の重さは、一般に年貢率で表わされるが、江戸時代の年貢率はよく六公四民、五公五民などといわれる。・・略・・ムラにおける年間の産出高あるいはムラの年収を表わす形式上の数値でしかないのである。現在の国民所得の概念からすれば、江戸時代の村高は必ずしも年々の村民所得を表示したものではない。・・略・・農業生産の実態、つまり検地以降の土地生産性の上昇、収益性の高い商品作物の導入、農産加工業の進展、農民の賃銀収入などといった経済条件が、この『村高』には反映されないのである。・・略・・四公六民ないし三公七民といった分配率ですら、幕藩領主とムラとの見かけ上の年貢負担にすぎず、江戸時代のムラと農民が実質的に賦課された年貢率ではないのである。」(『貧農史観を見直す』講談社現代新書)とある。

 江戸時代が下るに従って、農民が商品作物を盛んに生産し、それにより確かに経済的な豊かさをもたらした。農民の多品目生産は、社会的な要請に寄るもので、経済性の追求が強調されている。この判断は、農民側からのアプローチが欠けていないか。農民も、儲かるなら何でもするという、商人的な発想で仕事をしていると感じさせる。取りも直さず、農民は目先の利益しか考えず、愚かな下層の人々だということだ。

 農具の改良や稲の品種改良、作物の多様化などは、農村社会に少なからず変化を与えたが、農民としての自覚や村の自治や自由を低下させるものではなかった。「農書」、特に農民が携わった農書は、農民の総意綴ったとも言えるもので、地域の自然との共存をベースにし、農民(百姓)の本分を失うものではない。また、潰百姓の救済など、ムラの相互扶助が存続されており、農村社会の自治は保たれていた。