江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)316
豊かな庶民社会を示唆する庶民の遊び
・信心に託つけて
欧米人にとって、日本人の宗教心は理解しにくかったであろう。リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」、とまで感じたようだ。江戸時代の庶民は、「寺請制度」によって何れかの宗教を定め、その寺院の檀家となる事を義務付けられた。これは、キリスト教と不受不施派(禁制宗派等)を邪宗門として排除するために設けられた。これによって、庶民はその宗教を信じるか否かとは関係なく仏教徒とされた。
では、庶民に信仰心がなかったといえば、そのようなことは無く神仏を信じお参りしていた。リンダウはまた、「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」ことを見ている。逆に、ハリスは「特別な宗教的参会を私はなにも見ない。僧侶や神宮、寺院、神社、像などのひじょうに多い国でありながら、 日本ぐらい宗教上の問題に大いに無関心な国にいたことはないと、私は言わなければならない。この国の上層階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる」とまで書いている。
カッテンディーケは「日本人ほど寛容心の大きな国民は何処にもない」と感じており、「もし日本人が、歴史上キリスト教徒のことについて何も知らないならば、彼らは平気で日本の神様の傍にキリストの像を祭ったであろうと私は信ずる」と思ったようだ。
オールコックは浅草の観察から、「宗教はどんな形態にせよ、国民の生活にあまり入りこんでおらず、上層の教育ある階級は多かれ少なかれ懐疑的で冷淡である。彼らの宗教儀式や寺院が大衆的な娯楽と混じりあい、それを助長するようにされている奇妙なやりかたこそ、私の確信を裏づける証拠のひとつである。寺院の境内では芝居が演じられ、また射的場や市や茶屋が設けられ、花の展示、珍獣の見せ物、ベーカー街のマダム・タッソー館のような人形の展示が行われる。こういった雑多な寄せ集めは、敬虔な感情や真面目な信仰とほとんど両立しがたい」との見解を示している。
とは言うものの、「にもかかわらず日本人が、 表向きは宗教的目的をもつ巡礼に病みつきだということは、一方では、少くとも下層の人びとの間にある程度生き生きとした 宗教感情が存在することの明らかな証拠と考えてよい」とも述べている。
・信心から遊びへ
敬虔なキリスト教徒にとって、日本の庶民の信仰心は受け入れがたい形態と見えたに違いない。しかし、一神教のキリスト教徒と多神教の日本の庶民が、神への対応が異なるのは当然である。さらに、対象とする神についても、祈るという行為が個人によって差があり、異なるのが日本の庶民である。そして、江戸時代の神(信仰対象)は、個人的に祀った地蔵・道祖神などがあり、庶民の生活に宗教が密着し、浸透した時代であった。
実際、村々には多くの仏を祀る祠や堂が立てられており、街道にも仏の名が刻まれた碑や塔が祀られており旅人の疲れを癒した。それらは、幕府や領主などが設けたものではなく、また徳の高い僧の布教に寄るものでもない。その造作は農民によるもので、本当に拙い彫りや形態から彼らの心情を伝えている。
庶民が自然の恵み、脅威を体感し、特に農民は意のままにならぬ自然を宗教として受け入れていた。つまり、農民にとって自然教とも言える宗教心を信じ、頼るというようにして、日々を暮らしていた。生活は、四季の移り変わりを区切る二十四節気、それに応じた農作業が営まれた。その中に、多彩な年中行事が組み込まれて行った。年中行事は、農民にとって楽しみであり、労働からの開放される遊びであった。
そのような農民たちに、幕府や領主などは箸侈禁止令などを出し、庶民の娯楽や余暇を規制しようとした。しかし、農民たちは、雨乞いや疫病除けなどと称し、行事の停止や制限をなし崩しにした。幕府とて、雨乞いを禁止することはできず、祭礼は正当性を獲得し盛んになっていく。また、庶民の遊びは、年中行事とともに盛んになり、寺院で催される開帳など秘仏行事、神社の儀礼として営まれた歌舞伎や能、相撲なども容認された。かくして、庶民の楽しみは、信仰心を忘れさせるかのような様相を展開していった。
・遊びが信仰心を支える
江戸時代は庶民の宗教心が希薄になったように見えるものの、生活に密着して深くなったとも感じされる。それは、農産物でも高収入が得られる商品作物の栽培、農産物の加工、内職から農村家内工業と、貨幣経済が浸透し、生活にゆとりがでた。ゆとりができたことで、農休みは休息に加えて、娯楽性の強い遊びを行なう日が増えていった。
では、「遊び日の取り方や日数には地域差がみられるものの、年間三、四十日台から場所によっては六十日以上、最大八十日までも増加したムラもあった」と。また「江戸時代の農民は、農繁期には老若男女を問わず昼夜をおかずよく働き、農休みには村民こぞって骨休みをかねてよく遊ぶという勤労観と余暇観をもっており、四季の移り変わりという自然のリズムに対応した労働と遊びを共に行なっていたのである」(『貧農史観を見直す』)。
さらに、庶民の遊びは参詣の旅に及び、エンゲルベルト・ケンペル(医師、博物学者)によれば「この国の街道には毎日信じられないほどの人間がおり、・・略・・これは、一つにはこの国の人口が多いことと、また一つには他の諸国民と違って、彼らが非常によく旅行することが原因である。伊勢参りの・・略・・参詣の旅は一年中行われるが、特に春が盛んで 、それゆえ街道はこのころになると、もっぱらこうした旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の別もなく、この旅から信仰や御利益を得て、できるだけ歩き通そうとする。自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手に入れなければならない多くの伊勢参りの人たちは、参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。・・略・・他の地方の者よりも江戸の町や奥州の住民には、その筋の許可も受けずに伊勢参りの旅にでる習慣がある。そればかりでなく、非行を犯して近く罰を受ける少年でさえ、自分ひとりの考えでしばしば両親のところから逃走して伊勢に向い、自分たちの赦免に効力があるに相違いない免罪符をもらってくる。われわれはまた方々でいわゆる巡礼を見かける。彼らは、日本全国のあちこちにある大へん有名な観音をまつる三三の寺に詣り、時には・・略・・楽器を奏でるが、旅行者にお布施を求めるようなことはしない」と、『江戸参府旅行日記』(斉藤信訳 ㈱平凡社)に記している。
以上は、ケンペルが元禄四年(1691)、長崎から江戸までの「江戸参付」に同行した際の観察である。伊勢参りを巡礼と見ているが、キリスト教の巡礼は、聖地巡礼と神聖な精神性が強く、観光や物見遊山ではない。ケンペルは「ずぼらな奴がいて、伊勢参りを装って体が元気である間は、一年の大部分をこの街道で物乞いして過ごす者もいる 。また、こっけいなやり方で物乞い旅行をして伊勢参りをしたり、ほかの人々の眼をひき 用意に銭を集めることを得意とする者もある」とも見ている。