江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)317
豊かな江戸庶民社会あっての物見遊山
・物見遊山
巡礼といえば堅苦しく、敬虔な行為と感じられる。それが参詣となると、神聖さはあるものの親しみを伴い、庶民の信仰心に支えられた行為となる。さらに緩やかな行為として、「物見遊山」も宗教心を引き継ぎ、遊び、娯楽の要素が高くなる。
では物見遊山は、どのように理解されているだろうか。辞書を引くと、「気晴らしに見物や遊びに出かけること」、「見物して歩くこと」などとある。その使い方は、気軽に遊覧や行楽をすることで、「漫遊(気の向くままに訪ねまわる)」と同じようである。そして、「物見遊山に来たのではない」などの使い方で、否定的な印象を持ち、あまり好ましくない行為にみられることが少なくない。そのためか、最近は物見遊山という言葉を聞くことが少ないような気がする。特に若い人には通じないことがあり、「死語」になるのではなかろうか。
そこで物見遊山について調べると、この言葉は、わかっているような気がするものの、実は曖昧な言葉である。「物見遊山」は、「物見」と「遊山」からなる四字熟語である。そこで、それぞれの語源に分けてみる必要がある。「物見」とは、戦国時代には、探査や監視する意味に使われていた。それが、見物・見学などの意味も加わり、今日にいたっている。
「遊山」は、その読み方で意味が異なるとされ、「ゆうざん」と読めば、野山で遊ぶことであり、「ゆさん」と読めば、行楽することを指すらしい。なお、遊山は禅宗の言葉で仏教語とされ、山(寺)から山(寺)へと修行遍歴する旅(自由に歩き回る)を語源とされている。 この物見と遊山を合わせた四字熟語、物見遊山はさらに曖昧になっている。
しかし、「物見遊山」の初見を探すと、『虎寛本狂言・茫々頭(室町末~近世初)』に、「天下治り、めでたい御代で御座れば、物見遊山のと申て、都は殊之外賑な事で御ざる」とある。諸説あるものの、物見遊山が定着したのは江戸時代とされている。
物見遊山が江戸庶民に広く浸透するのは、十九世紀に入ってからである。文化元年(1804)に向島百花園が開園しているように、物見遊山の気運はそれより先に高まっていた。庶民の要望を受けるように、物見遊山の手引き書として『東都近郊図(文政八年1825)が刊行される。その二年後、『東都花暦名 所案内』(文政十年1827)が、花暦一覧を加えて刊行される。そして、『江戸名所図絵』(天保五年1834・天保七年1836)が江戸近郊を含めての名所を、挿絵とコメントを入れて刊行した。
・物見遊山の特性
物見遊山は、目的地を決めてから出掛けることになる。その時思い浮かぶのは、芝居や飲食店ではなく、寺社や風光明媚な場所である。選定場所に感じられるのは宗教性、名所・旧跡などを尋ねるものであり、由緒や謂われを伴うものが多い。ただ観るだけではなく、始めから笑いや興奮などを求めるのではなく、心地よさを求めているのである。
物見遊山は、大半が歩くことで、移動に時間を費やし、目的地までの過程が楽しみになっている、と考えても良いようだ。目的地で花見や紅葉狩りを楽しむといっても、そこで過ごす時間は案外短い。開帳にしても、秘宝や神仏などを拝観する時間はさほどなく、併設する見世物や売店などを見て回るよりも短かったであろう。
物見遊山は、巡り歩くことが目的であり、往復の道筋が違うことはもちろん、途中で行き先を変えることもあり、本当に気ままな行為であったと思われる。そのため、歩行距離がその時の気分で近道したり、遠回りすることもある。そして、歩く道が長くなったからといって、苦痛とか、嫌だとかいうことはないのである。
現代の類似した活動として、ピクニックや行楽などが該当すると考えられるものの、往復する間の気分と楽しみは遥かに充実している。というのも、物見遊山は徒歩があたりまえ、現代では電車や自動車に乗るのがあたり前、だから、交通機関の乗降時刻を気にしなければならないからである。また、移動速度が速いため、景色を見続けるのに疲れ、居眠りすることもある。なお、車窓を楽しむ旅を否定するものではない。
二十一世紀での行楽は、効率的にいくつもの場所を巡り、途中を軽視するような活動になっている。さらに、行楽や旅行を現地に出掛けなくても、高画質・高精細な映像で満喫する人もいる。自宅に居ながら名所や行楽地、さらには神社や仏閣を解説付きで鑑賞し、それで満足できる時代になりつつある。さらに該当地の産物や料理も味わうことも可能で、実体験とは何かが問われている。そのような中で、物見遊山などは江戸時代の残物で、消えるべくして消えるものとして省みられなくなるであろう。
・江戸の物見遊山
江戸時代の物見遊山がどのようなものであったか、『宴遊日記』(「日本庶民文化史料集成 13」三一書房)から紹介する。筆者は柳沢信鴻、大和国郡山藩の第二代藩主、五代将軍綱吉のお側用人・柳沢吉保の孫である。信鴻は五十歳で隠居したのち、江戸市中を興味にまかせて訪ね歩き、物見遊山を楽しんだ。「大名の『定年後』江戸の物見遊山」(中央公論新社)より。
天明二年(1782)二月廿八日、葛西の田舎から四人の老婆が八里(約24㎞)を歩いて六阿弥陀(西ヶ原)を訪れた。老婆たちの身なりは太鼓をもち念仏唱へ旅の風情で、建前として巡礼であるものの伊勢参りのスタイルである。老婆とはいうものの、24㎞も四人で四方山話をしながら歩いたのであろう、本音は信心に託つけた物見遊山に違いない。訪れたのは江戸六阿弥陀巡礼の3番目、そこへ物見遊山の柳沢信鴻が遭遇し、共に如来観音を拝した。そこで、老婆は家来から念仏踊を所望され、踊ったのに対し「二百銅遣八し又召連門外表石前へ出、かしこにて弁当開き老嫗四人へも遣ハす」とある。老婆はお金だけでなく、朝食が茶の子(軽い食事)であったこともあって喜んでいる。
天明四年(1784)十二月十八日、信鴻は午後から浅草へ向かい、本郷より湯島、聖廟拝し、男坂より竹町中通、観蔵院前の三河屋に休み、暖気故三つ着たるを一つ脱、爰より群集、田原町二丁目より並木通りは混み合い雑踏、風神門内はさらに混み合い、そこで横丁へぬけ裏口より伊勢屋へ行く。そこに谷風が来て、甚乱擾になり、又裏口より矢大神門(二天門)へ向かい、浅草寺本堂内陣にて拝し後、磴道より下り山内を廻る、人出は昨日より十倍也、又矢太臣門を出、風神門から旅籠町、また観蔵院前、そこからは行きと異なり車坂、谷中通りを抜けて、暮れ前に帰った。
この日の物見遊山は、前日に続く来訪である。その時は、駕籠に乗った側室のお隆たちと浅草市を見るもので、買物が主であったようだ。その日のお出かけは、お供を20人以上連れて、母も加わるなど、信鴻はのびのびと見歩きできなかったのであろう。十八日のお供は男だけ、混雑状況に応じて、脇道や裏口など臨機応変に歩き、馴染みの茶屋に寄るなど気ままな遊行であったと思われる。そして、注目するのが、当時の人気スターを描いた『江戸三幅対』(歌舞伎の六代目市川団十郎・吉原遊女の扇屋花扇・相撲の横綱谷風)に描かれた谷風に遭遇している。谷風が浅草に現れたとのことで、一目見ようとする人々の乱れ騒ぐ場面を見ている。予期せぬ出来事は、物見遊山の醍醐味であり、日記に記している。