江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)318
江戸の庶民社会を映す上野と飛鳥山の物見遊山
上野は、浅草と並ぶ行楽地であり、浅草より神聖な場所で、敬虔な気持ちで訪れる。というのも、上野には将軍家の菩提寺(東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ))があり、参詣とともに、景勝地としても親しまれていた。上野山内には、谷中門、清水門、鐘楼脇(弁天の門)、黒門・御成門、山下門、車坂門、屏風坂門、坂下門などの門があった。山内での活動は、これらの門によって自由に歩き回れず、夜間に閉められ制限された。また、夜間の遊行禁止だけでなく、鳴り物禁止などの制約が厳しく、庶民が羽を伸ばして遊べる場所ではなかった。それは、もと大名の信鴻にとっても同様で、山内では特に敬虔な気持ちで参詣していた。山内で一番人気があったのは、清水堂(舞台)であろう。現代では周辺の樹木で見通しが遮られているが、江戸時代には不忍池を見下ろす景観は、『江戸名所図絵』や錦絵に紹介されている。
・上野
庶民が遊行するのは、上野山内から不忍池や弁天、池之端(いけのはた)、阿弥陀(あみだ)、五条(ごじょう)天神(てんじん)などが人気があった。中でも、火除け地として設けられた広小路には、茶屋や各種の店、露店などがあり、上野ならではの味わいを醸しだしていた。そのような上野周辺の四季折々を紹介したい。
春の利用は、花見が有名であるが、山内での宴会や夜桜見物ができないため、花を観賞するだけという上品なものであった。山内の花は、モモ、スモモに始まり、ヒガンザクラ、ヤマザクラである。
信鴻の行程示すと「山下より広小路へ出、池端竹細工の鄽を見、中町辻より入、手打蕎麦へ行、客多し、鄽婆出、今より仕立れハ、余程手間取由云、ゆへ立出」た。そして、三枚橋手前の「広小路石焼豆腐新鄽へ行」く。そこには、「客十人計在、鄽上乾浄ながら狭し、茶漬・石焼豆腐・生揚豆腐・はりはり汁」が楽しめる。
夏のお目当ては、夕涼みとハスの花。夕涼みには不忍池、「天晴尽し南風、大にすゝしく月色清し、飄然夏を忘る」、広小路には虫うり(ホタル・コウロギ)、池之端・東側一面灯を掛賑し、茶やにしばらく休めば夜色大に涼し。広小路の五条天神には桃灯有り、賑があり参詣する人が多く、ちの輪(夏越祓の茅の輪)を潜る、というのが広小路の情景である。
信鴻は、「晩鐘より池端弁天参詣」と、日暮れに六義園を出て「千駄樹にて夜に入」る。「池端へ五ツ(午後8時)に出、梅本既にみせを仕廻ふ故、戸を叩おこし暫く休む」。「広小路虫売等を見、ふしや脇より山下へ出、一銚子鄽を見」る。そこからまた藤や(茶屋)で「蕃麦・冷麦等を皆々に喫せしむ、風凪南より雲出、月色朧々、四ツ(午後10時)聞へて、かしこを起行」している。また、夏の早朝には日の出前から湯島参詣を済ませ、、「女坂より中町池端へ出、弁天参詣、南茶屋に休む、荷花満開、東風甚涼、池端より帰る」と、早朝のハスの開花を見ている。
秋に訪れた信鴻は、「池端通り今日蓮切にて人多し、橋向ふ和国やに休む、虫売多く、蛬を買ふ、余の虫なし、梅本屋にて藤やそは取寄」と。不忍池の蓮は切られ、虫も秋の虫、蛬(キリギリス)となる。
さらに秋が深まれば、信鴻はお供の伊藤を藤屋へ案内に遣し、広小路の植木を見て、白菊を求させ、気に入った槇をお共に直(値段)を交渉させ、お供二人を残し、藤屋へ行き、蕎麦喫する。池端蓬莱屋では、庸軒流蘭山門弟の挿花会(生花展覧会)が催されていた。そこでは「賑しき故、直に行て見る、二階、中二階に挿花百種計有、見物込合ふ」と、植木や生花が人々を呼び寄せていた。
冬になると、信鴻は「広小路植樹を見、松・八ツ手を買ハせ」、「今日咀英(咀嚼英華)蓬莱屋にて挿花会ゆへ行、幕に挿花会、其儘庵杜中と染出し二階へ張る、今花ハ済し由いふゆへ、紋衛門来在やと尋させ、直に入る、中二階段々花を仕廻様子、上の二階より珠成(息子)来り同道花を見」る。「池の端通りより穴稲荷参詣、観音拝し山内へ入る、太師群集、谷中門より出」ている。
以上が上野山内・周辺の遊行状況である。その他にも楽しんだこととして、広小路の夷屋に休んだときには鼡(ねずみ)花火を行い。広小路にてあんけら飴の唄うたい売るを聞きいている。また、信鴻は池端からの帰りがけ、清水門外にて千垢離(川垢離)の幣を大勢が振行しているのに遇っている。
・飛鳥山
王子駅の西側にある小山が飛鳥山、現在は飛鳥山公園となり、ケーブルカーで登れ、市民の憩いの場になっている。江戸時代の飛鳥山は、公園とは呼ばないものの江戸庶民が自由に遊行できる場所であった。その切掛けは、享保五年(1720年)、徳川吉宗によるサクラとカエデの植栽である。享保十八年には、花見客のため十軒の水茶屋設置が許可され、元文三年(1738年)、五十四軒の水茶屋が許可され、庶民に開放された桜の名所になった。また北側には、飛鳥山を寄進した王子権現(王子神社)があり、その間を音無川(滝野川)が流れ、さらに川の先には滝不動などがあり、春の桜、秋の紅葉と、四季折々に訪れる場所である。
そのような飛鳥山、六義園で隠居生活を初めて間もない信鴻の安永三年に何回も訪れている。飛鳥山が最も人気があるのは、花見の時期であり、待ち焦がれる人が多かったのであろう。その一人の信鴻も、三月一日に、飛鳥山と王子権現を尋ねている。途中の人通りは少なく、咲いているのは「垂海棠(ハナカイドウ)満開」と「飛鳥山華未開」と記している。
サクラの開花が気になっていたのだろう、花見時の三月廿六日には午後3時ころから飛鳥山へ出かけた。サクラは見頃であったらしく、「途野人等多く風流ならぬ」と、花見の中に入っていけなかった。その混雑の主役は庶民であること、騒ぎの程がわかる。飛鳥山の花見をあきらめ、道灌山に向かった。「田畔を左行、左右麦隴長し、風景好、道行人群集」と、行楽シーズンを反映していた。道灌山では野童土器(かわらけ)投が行なわれており、供の2人も投げている。日暮の岡には人が群集しており、高台にある繋舟松(舟人が目印としたマツの木)は霞みがかり見へなかった、と、日暮里まで大勢の人が出ていたことを記している。なお、「土器投げ」は、素焼きの皿などを厄よけとして、高いところから願いを掛けて投げるものである。ここでは、子供の遊びとして行われていたものと思われる。
六月五日も飛鳥山周辺に訪れ、飛鳥山へ上り、山越しに稲荷へ、飛鳥山下茶屋長岡屋へ行「彼処にて弁当、田楽等焼かせ」午後七時前、「王子の方へ螢取に」行くが「今夜螢甚少し、二三十計取来る」と螢狩りを楽しんでいる。
十月にも「今日日天気晴尽一天雲なし」ということで、午後2時過ぎからお隆を連れて飛鳥山へ出かけた。笠志店でに少し休み、飛鳥山上に敷物を広げ、茶屋より田楽取寄酒呑、塗より遠目鏡取にやり「山東遠望、諸山皆晴、前路を暮時帰る」と、花見時の喧騒とは無縁のひとときを過ごしている。
寒い十二月初め、信鴻は「飛鳥山を廻り稲荷参詣」へ、「帰り山通り橋手前西側茶屋に休む、客在、田楽焼せ酒を飲、前路を帰る、平塚手前にて茶の荷背負し二十四五の男、予に向ひ腹痛甚く丸薬を乞ふ故麝香丸与ふ」と。このような対応は、信鴻の人柄もあろうが、当時の社会では当たり前であったのだろうか。
以上の他の信鴻の物見遊山は、「大名の『定年後』江戸の物見遊山」(中央公論新社)を参照頂ければありがたいです。