江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)319
昭和20年8月終戦の日
終戦前後の国の歴史的な分岐点で、国民の大半を占める大衆はどのような対応をしているか。幕末維新期は、江戸時代から明治時代へと政権が替わったことで、日本社会が大きく変化していく。ただ、社会の変化を受ける庶民は、格別な期待や不安などをあまり感じてないようだ。特に江戸庶民は、明治初期(六年) 程までは、江戸時代の延長のようなものであった。寄席にはなんと年間百五十万人、見世物にも百万人もの人々が押しかけている。さらに祭りには町中が総出で盛り上げ、花見や開帳、縁日、と庶民の楽しみは江戸時代と変わらない。そうした庶民の姿からは不思議なことに、社会変化の衝撃というものがあまり感じられない。
歴史で重要視される幕末の世相から観ると、幕府と官軍の争いによって、江戸の町は混乱し、ことによっては江戸の町が火の海になったかもしれないように推測される。そのような時局にも、庶民はさして動揺する気配はあまり感じられず、江戸時代の普段のペースで生活を維持し、適当に遊んでいるように見れる。歴史的に重大な意味を持ち壮絶な戦いの上野戦争にしても、大火事程度の認識で、決戦には、見物人が群集し、彼らを相手ににぎり飯や沢庵が売られたという信じがたい話もある。
次に、幕末維新時に対し、昭和終戦時前後の大衆の状況はどのようであったか。昭和初期の歴史は、国家、国という視点から記され、国民、それも大衆からの視点は無視されていると言っても良いだろう。国民の大多数を占める大衆は、確かに過酷な生活を強いられた。が、戦時中でも楽しいことや面白いこと、生き甲斐がまったくなかったはずはない。東京は東京の、大阪は大阪の、地方によって様々な生活があった。しかし、記録として残される重要な歴史には、その日一日を楽しく過ごした大衆の営みなど無用なようである。
終戦までの昭和初期については、数多くの本が出されている。その多くは、当時の国際関係からはじまり、政治体制、軍内部の抗争、事変の発端から戦争の経緯などが書かれている。国が激動した様子は詳しく書かれているが、国民の心情についてはあまり触れていない。あるのは困窮生活の実情くらいで、「苦しく大変であった」という健気な庶民の訴えである。
かなり昔ではあるが息子の歴史の教科書を見たときも、奈良時代の庶民は貧しく、苦しい生活をしていたと書かれていた。しかし、当時の人々も、ただ苦しいだけの毎日ではなかったはずだ。また、自分たちのことを、わずか一言で語ってほしくはないだろう。日本の歴史は、往々にして大多数を占める大衆を軽視する傾向がある。 普通に考えれば、「民」あっての「国」であり、「国」あっての「民」ではないだろう。ところが、「国」が「民」を無視することがあるから問題が起きる。たとえば、「国を愛する」という文言についても言えそうだ。「国を愛する」ことは、国民として当然のことであると思える。が、残念ながら国を愛しても、民を愛することに結びつかないことがあるからだ。
国を愛するという前に、国民を愛することが前提としてなければならないだろう。しかし、国民を愛することが抜け、国を愛することだけが一人歩きをする危うさがある。それは、まさに昭和初期、軍部や政府が国のためを考えて進めた施策である。指示した人たちは、国を愛し、国のためを思っておこなってかもしれない。が、戦局が悪化してくると、「一億玉砕」を国民に押しつけた。国を守るためには、民はすべてを犠牲にしろと。事実、沖縄では、犠牲者は軍人より島民の方が多かった。
『軍国昭和東京庶民の楽しみ』(中央公論新社)には、少ない史料の中から、庶民の状況をまとめた。そして、終戦後を『戦後復興日々の楽しみ』(八坂書房)をまとめた。これらを元に、終戦前後の都民の実態を以下のように示すことにした。
八月十五日
新聞は玉音放送の後に出されたもので、朝日新聞の一面には、「戦争終結の大詔渙発さる」「新爆弾の惨害に大御心」とある。敗戦という言葉はないものの、「国土の焦土化忍びず」。そして、「再生の道は苛烈」などの見出しもある中で、社説は「一億相哭(みんなで泣く)の秋」とある。
二面に「玉砂利握りしねつつ 宮城を拝しただ涙」の記事があるものの、「大本営発表 空母、巡艦を大破」の戦果も掲載されている。そして、国民には「乏しき食糧を覚悟 整然たる供出、忍べ摂食」が求められている。また、「維持せよ経済秩序 今の混乱は百年の禍根」と、さらなる統制経済も求められている。このような錯綜するような情勢を受け、映画広告などは掲載がなく、ラジオ番組の欄もなくなった。
毎日新聞の社説は「過去を肝に銘し前途を見よ」とあり、「一億総懺悔」に触れている。
高見順の『敗戦日記』に、
「・・・駅は、いつもと少しも変わらない。どこかのおかみさんが中学生に向かって、
『お昼に何か大変な放送があるって話だったが、なんだったの』
と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて小声で何かいった。
『え? え?』
とおかみさんは大きな声で聞き返している。
電車の中も平日と変わらなかった・・略・・軍曹は隣りの男と、しきりに話している。
『何かある、きっと何かある』と軍曹は拳を固める。
『休戦のような聲をして、敵を水際までひきつけておいて、そしてガンと叩くのかもしれない。きっとそうだ』
私はひそかに、溜息をついた。・・略・・憲兵が出ていた。改札口にも立っている。しかし、民衆の雰囲気はきわめて穏やかなものだった。平静である。昂奮しているものは一人も見かけない。・・・」と書いている。
この日の国民の多くは、玉音放送内容を理解できなかったようだが、戦争の終結を感じたと推測される。
では、十五日の前日まではどのような日であったか、東京都民の状況を探ってみよう。
八月十四日
玉音放送の前日、一部の人は終戦を察知していたが、東京都民の大半はそれまでの生活と変わりなく過ごしていた。朝日新聞一面には「大型水上機母艦撃沈」「機動部隊、又も関東近海に出現 六百機が分散来襲」と、前日までと同じように戦況を伝える記事である。
二面も「国民志気の陣頭に」「梨木総裁宮殿下 郷軍に令旨を賜ふ」と、戦時体制は変わらぬ。
広告として、日比谷公会堂で灰田勝彦楽団の憩いのひととき音楽会があり、東宝映画の「北の三人」も掲載されている。
高見は、銀座のエビスビアホールで、「久しぶりのビール・・略・・一杯飲むと・・略・・また新来の客のような顔をして・・略・・三杯飲んだ。酩酊したのもいる。声高にみな喋っている。けれど、日本の運命について語っているものはない。・・略・・そういう言葉を慎んでいる。・・略・・四国共同宣言の承諾の発表! 戦争終結の発表!」が翌日あることを知っても、「みな、ふーんというだけであった。溜息をつくだけであった。・・略・・銀座は真暗だった。廃墟だった。汁粉など食わせるところは、どこもない。」で、日記は結ばれている。
八月十三日
朝日新聞は「雄基、琿春、海拉爾などでソ連軍を邀へ激戦」と続くが、戦果は書かれていない。
二面に「聖慮を安んじ奉る 途は一つ『一億の団結』敵の非道に燃やせ悲憤」をと、訴えている。もう少し詳しく他の新聞などを、高見順は記している。「・・・待ちに待った新聞が来た。ただし十二日のだ。毎日はトップに、二重橋前で最敬礼している家族の写真を掲げ『悠久の大義に生きん』という見出し」。続いて見出しを示すと「全満国境に戦火拡大、ソ軍雄基 (北鮮) にも侵出」「十八勇士に感状、果敢・比島の挺身奇襲戦」「近距離内で確保、生産者価格を大幅に引上ぐ、蔬菜の供給改善対策」「発明者を処刑せよ、英紙に憤怒の投書」、裏面は「難局を背負う老首相、一念・奉公の誠、注射も断りぶつ通しの活躍」「世界を破滅に導く、非人道の原子爆弾」「小型機襲撃から貨車駅舎を護る、戦闘隊員初の大臣表彰」「平凡な農村日記に『明日の誓い』働く一家の底力」「焼ビルに薫る旋律、友の情けのヴァイオリンに更生した街の音楽家」などがある。社説は「東宮職の新設」。広告中に「都合に依り八月十三日日比谷公会堂における演説会中止、国粋同盟本部」がある。
読売は、毎日と違う題目は「米不足補う秋作、関東各県の対策を見る」「白下着で火傷防止、鉄筋建築に待避、新型爆弾 の防禦策追加、横穴壕も有効」「人道の敵、米の新型爆弾、非戦闘員殺戮を目標、毒ガス以上の残虐、明かに国際法違反だ」「焦土に見る全日本人の悲憤、広島にて、落ついた市民の姿、強度の曳光に路上の人は殆んど火傷・・・社説は『不滅の信念と不滅の努力』。知りたいとおもうことは何も出てない。」と言いながら日記に写している。