昭和二十年二月一日~二日B29を実際に見る

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)338
昭和二十年二月一日~二日B29を実際に見る

 昭和二十年二月の東京は、一月から続くB29の空襲を受けた、130機による爆撃で7万人以上が罹災した。その上、室内の水が凍るという寒さ、食料だけでなく燃料も不足していた。首都が空襲を受けることから、戦局の悪化は直接口には出さないものの、敗北的なデマが増加していた。その取締は東京で1月以来40件余りが検事局に送致されるという状況。

 戦意向上の叱咤激励を盛んに流すが、空襲におびえる市民の心には響かなかったように思う。市民が求めたのは、恐怖を忘れようと、逃れるため求めたのはラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。また市民は、面白いものに加えて、好奇心を求めており、多少怖くても楽しもうとする人は少なからずいた。

 

二月一日から日比谷公園でB29が「曝し物」となった。

 読売新聞は、日比谷公園で「B29曝し物」と、一日から二十日までB29の機体が展示されることを紹介。首都防衛が行なわれており、その成果として展示したものであろうか。でも逆で、このような巨大な飛行機が襲来すれば、日本の飛行機では太刀打ちできないと感じる人が出ることを想定していなかったのであろうか。その隣に、小さな日本の飛行機を並べた。どう見ても太刀打ちできないことは、素人でもわかるだろう。

 山田風太郎は「米人は恐るべく勤勉なり、今の日本で最も働き最も能率をあげいる者は誰ぞや、そは囚人と米軍の捕虜なり。囚人は知らず、米捕虜の働くは必ずしも背後に銃剣あるに依らず。彼らは実に働くをたのしみとなす国民なり。余、今次大戦始まる前、米に渡り・・・彼らの組織力に富むことなり。而して何事も極度に分化し、平易化せしめ、以て驚嘆すべき能率をあげることなり。フォード会社にては、自動車一台を作るに費すは四十五分のみ。四十分後にはすでにガソリン注がれて出口より疾走して去る。・・・本土来襲のB29の内部を点検して先ず気のつくことは、あの巨体の操縦法、・・・未経験の者もただちにこれに搭乗操縦し得るにあらずやと思わるるまでに、簡明にして平易なることなり。・・・この恐るべき敵を相手として、吾人何すれぞ今までごとき苦労にて大東亜帝国の建設成るべきや。・・・僅々四年の歳月を以て手中にせんとはあまりに虫よき話なり」書いている。

 

敵機来襲に不安な二月二日

 朝日新聞は「勝利の日まで享楽お預け 停止中の遊休施設は挙げて戦力化」と、戦争続行を掲げ、レジャーの自粛を訴えている。

 ロッパは、「外は、ビュービュー嵐のやうな風の音。ブーウと来た。八時前だ。ラヂオ『敵機一機』風が強いのに御苦労な。服着て、オーバ着て、防空頭巾被って茶の間へ。八時半前に、一機は関東東部に爆弾投下して南方海上へ退去ときいて、寝袋になって床へ半身もぐり込む。又空に爆音。」と、空襲を恐れる様を記している。