江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)340
昭和二十年までの建国記念日
2026年の建国記念日は、高市総選挙とミラノ冬期オリンピックに埋没しそうである。祝日であるが、雨天であることから、国旗を掲げる家は少ないであろう。また、高層マンションでは各家に掲げることは困難であろう。戦後の建国記念日を考えるに当たって、昭和二十年までの東京市民の対応を見てみたい。資料は、「軍国昭和東京市民のたのしみ」(中央公論新社)の作成関連資料、主に新聞や日記などである。
昭和3年、建国祭の大行進、市内靖国神社など6カ所で盛大に行われる。12日付朝日新聞朝刊
昭和4年 靖国神社・明治神宮外苑・上野・芝・浅草・深川の公園など六ヶ所で建国祭、式後「無慮十万の若人が」二重橋前へ大行進。12日付朝日新聞夕刊 とあるが、動員されていないか、以後も同様。
昭和5年 建国祭は、靖国神社などの6会場に青年団、在郷軍人、学生、各種思想団体、神仏各派団体など「四万数千人」が参加して盛大に催された。集会後、各会場から「寒風吹き荒む中を 雄々しき大行進」が二重橋前へ。12日付朝日新聞夕刊
昭和6年 十一日の建国祭「壮観!七万の長列 雪を蹴って大行進 年毎に盛んな建国祭」。12日付朝日新聞朝刊
昭和7年 建国祭、六会場に二万三千人、代々木に五千の学生集う。12日付朝日新聞夕刊 これまでの参加人員に差がありすぎないか。
昭和8年 建国祭は、式場が7ヶ所になり、「熱気の大行進」二十万人、前年より盛大となった。12日付読売新聞夕刊 その日、永井荷風は銀座を歩き、「祭日なれば街上雑遝すること甚し」、「店悉く店頭に建国祭の掲示」、「タイガアの店口に楠正成とも見ゆる鎧武者の画看板を出し、また店内には大なる乗馬武者人形」を見ている。河南省で戦闘が進められ、新聞に“国家非常時”の文字が度々現われ、九段で在郷軍人大会、日比谷公園の国民大会などの記事が大きく取り上げられるようになった。
昭和9年 建国祭「街には十万の奉祝行進」。12日付朝日新聞夕刊
昭和10年 力強い建国の行進 帝都を練る赤誠十万。12日付朝日新聞夕刊
「建国祭は、十年の歳月を送って遂に我等日本人をあげての年中行事となった」。市内では明治神宮、靖国神社など8ヶ所で催され、上野公園には「在郷軍人、青少年団のカーキ色の服、学生の金ボタン、エプロン姿の国防婦人会」等々「あらゆる階級を網羅した日本人」が割り込む隙間もないくらい押し寄せた。式後、落語家ら芸人3百名を含む1万人は、ラッパ隊を先頭に上野の山を下り宮城へと向かった。この光景を撮影しようと外国トーキー班が飛び回っていた。
昭和11年 市内七ヶ所で紀元節祭、三百余団体六万三千人。12日付朝日新聞夕刊
昭和12年 建国祭、七万人動員「帝都は奉祝の一色」。12日付朝日新聞夕刊 古川ロッパは11日、「宮城のあたり建国祭の行列にぎやか、座は開場前にもう満員」。
昭和13年 建国祭、靖国神社・神宮外苑・芝公園・上野公園など七ヶ所に郷軍・男女青年団・学生など約廿万人が参列。12日付朝日新聞夕刊
昭和14年 建国祭「陸上式典に七万人」、この日の人出は東京駅四十万、新宿駅三十五万、上野駅十五万等々。12日付朝日新聞夕刊 永井荷風は11日、「紀元節にて世間騒がしければ終日門を出でず」と。
昭和15年 “建国の春”を壽ぐ明粧。朝香大将宮殿下の台臨を仰ぎ奉り、都下六十三校「四万二千」の武装若人を動員して代々木原頭に挙行される軍国の奉祝式をはじめ宮城へ、明治神宮、靖国神社へ、白神様へ、さては陸に海に空に帝都を奉祝一色に塗りつぶす当日の行事。11日付朝日新聞夕刊
昭和16年 建国祭、靖国神社など七式典場に「ざっと十三万」式終了後皇居前広場に向かって行進。12日付朝日新聞朝刊
昭和18年 紀元節、靖国神社などに「各種団体十二万人」12日付朝日新聞朝刊
昭和19年 建国記念日は「宮城前に紀元節を壽ぐ赤子の万歳」や「奉祝大会」「航空戦力昂揚へ堂々少年大会」などと。少年大会は百校五千人もの生徒動員。また、都下中等学校百校一万人が「見よこの撃滅魂」と、靖国神社と明治神宮に必勝祈願、女子部も三十余校一千二百名が朝七時半に宮城前に集合し、30キロメートルを踏破し、午後四時に靖国神社で解散。12日付朝日新聞朝刊他 様々なイベントが催され、まるでレジャー記事のような紹介。学生生徒の人数は詳細だが、一般市民の数は不明。
昭和20年 あす紀元の佳節に勤労顯工章 個人二四七名、団体一〇二。11日付朝日新聞