昭和二十年二月十三日浅草などの状況は

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)343

昭和二十年二月十三日浅草などの状況は

 高見順は、「観音樣はやはり参詣人がすくない。裏へ廻って映館街へ出ようとして、樂天地のあたりに來て驚いた。樂天地はもとよりその邊一帶がことごとく取り拂いになっていて、『如何なる星の下に』に書いた『びっくりぜんざい』も『大善』もない。『米久』もなければ『昭和劇場』もなく、そこから入谷に突き拔けて廣い通りができ上っている。

 感慨無量で、樂天地跡で立小便をした。鐵筋コンクリートの建物はまだ残ってており、コンクリート製の山もまだ残っていて、『鳥獸供養碑』というのが、こっちを向いて立っている。花屋敷の名残りと察せられる。花屋敷は昔のおもかげをとどめないでも、樂天地があったので、ここに昔、花屋敷があったのだと 思い出の機縁になったが、この樂天地も跡を絶つとなると、花屋敷は何處にあつたかわからないことになってしまうであろう。

 六区に出る。池に面して櫛比していた映館もポツンポツンと間びき疎開、池の縁には露店がび っしり出ていたものだが、今は影も形もない。否一軒だけ、ゴム紐とかボタンとか、そんなものを売っているこの頃流行の、どこでも見かける露店が、昔の記念のように出ていた。『東橋新誌』を書いていた頃、すでに露店は少くなりかけていて、貝のおでん屋だけが変に殖えていたものだが、それも今はなくなった。

 国際通りに出、どこかで食えるものがあったら食っておこうと見廻すと、合羽橋通りの角の『今半』の前に行列ができている。

 『今半』ならそうひどいこともないだろうと倉橋君がいうので、行列のうしろについたが、かなり急速に行列が動くところから察すると、こりや相當粗惡で少量だぞと思わせられた。やがて代用食堂圓と貼紙のしてあるレジスターに近づき、小銭を用意して内部をのぞくと、なるほど少量だ。皿にほんのちよっぴりのせてあるその代用食なるものの正体がまた、ただのぞいただけでは見當のつきかねる代物で、白いものに眞黑な、ひじきのようなものがまじっている。いかにもまずそうな、見ただけでも食慾の減退する代物であったが、それでもひとりで三皿も取っているおかみさんがあった。おかみさんは竹製の弁當箱をゴソゴソ取り出した。そうして皿の上のものを食べないで弁當箱にしまっている。ふーんと私がいった時、もう六人でおしまいとレジスターの男が怒鳴った。敷えると私の前でおしまいだった。やむなく列を崩し、合羽橋通りを行った。頑張 っていれば、ああいう場合 一人や二人 は余分があって食えるものだと倉橋君が言った。

 『染太郞』によく來るおやじさんが通りで屋臺を出している。景気のいい煙があがっているが、近附くと臭い。にんにくを燒いているのだ。別に袋に入れた乾にんにくを一円で売っている。倉橋君の話だと、せんは、にんにく湯というのをやっていて、『さあ、こいつを飲めば身体がポカポカとあたたまって、夜中に防空壕に入っても風邪をひかない。一パイ十銭』とそう言って売っていた。十鏡で風邪よけになれば安いものだとわれもわれもと、通りすがりの者が一杯ずつやり、たちまち大儲けをしたという。にんにく湯とは、にんにくをおろしたのを湯の中に入れ、それにちょいと燒海苔なんぞを振りかけたもので、まるでタダみたいなもの、──今は、こういう商賣が儲かってしようがない。

 合羽橋の壽司屋、メシ屋の前はいずれも行列。菊屋橋通りに近いところに鹿島屋という外食券のメシ屋があり、ここは珍しく行列がない。(あとで倉橋君が、行列の長い外食券の食堂ほど、おかずがいいのだと言った。)倉橋君は一枚だけ外食券を持っている。生徒のなかに半島出身 のもので外食券で食っているのがあって (外の食堂で食事をしている中學生があるということは私を驚かした) 、それが、券の残りを勝ってくれるのだという。──私は弁当持参だった。そこで倉橋君が食堂でおかずだけ貰って(食堂では米が大事なので、おかずだけというのはかえって歓迎と彼は言った) 持参の弁当を食ったらどうか、そう言って、交渉をしになかに入った。なかはやはり、外に行列がなくとも、人が立っていて混んでいる。私は『倉橋君、いいです』と辟易の馨を挙げた。『僕は外で待っています。弁当はゆっくり何處かで食います。あんた、いいですから食って下さい。ゆっくりどうか』

 外に立って、なんとなく街を眺めていた。筋向いの店屋に『獸米を屠殺せよ』と書いた札が貼 ってある。『獸米』に『ケダ モノアメリカ』とルビが振ってある。セルロイドの湯桶を持った女が小走りに私の前を行く。反対方から顔を赤く上気させた家族がやってくる。風呂屋が近くにあるのだ。風呂屋を目指してあわただしい空気が流れていた。」と綴っている。

 古川ロッパの十三日の日記に、「井ノ頭公園を横切って──何と此の公園の森が伐られて、木の根ばかり、樺太の如き光景となり果てゝゐる。」と、記している。なお、高見も二十五日の日記に「棺の木材がなく、井の頭の杉を切ってそれに當てている」と書いている。