ガーデニングを楽しむ 3

ガーデニングを楽しむ  3
園芸書と作庭書                                                                   金生樹譜より
イメージ 1  江戸時代には数多くの園芸書が書かれている。園芸書を書いた人は、実際に植物を栽培し、繁殖させ、その方法を研究した専門家である。なかでも『錦繍枕』『花壇地錦抄』などを記した伊藤伊兵衛は、園芸書の作成に特に熱心であった。園芸書は、大勢の人に花の栽培に興味を持ってもらおうという気持ちから書かれたものが大半で、たとえば二万石の殿様であった松平頼寛が綴った『菊経』を見るとそれが良くわかる。
  作庭書についても、江戸時代に数多く書かれたが、事情が少し違うような気がする。それは、桂離宮を造営した八条宮智仁・智忠親王修学院離宮を造営した後水尾上皇、さらには江戸時代の作庭家を代表する小堀遠州らが不思議なことに作庭書を残していないからである。作庭家にとって作品は重要だが、作庭過程や技法を書き残す必要性はないと考えていたのではなかろうか。
 日本で最も古い庭園書として『作庭記』がある。これは平安時代の庭園、寝殿造の作庭に関して書かれているものだが、現代にも通じるところがいくつもある。この書は、藤原氏の秘伝とされていた無名の作庭書を橘俊綱が編纂したというのが定説だ。これが『作庭記』と呼ばれるようになったのは江戸時代の中頃からで、それまでは『前栽秘抄』と呼ばれていた。その『前栽秘抄』という名も鎌倉時代に付けられたものらしく、俊綱本人が記したものではないらしい。
  『作庭記』は、庭づくりの心構えに始まり、庭をつくる際の禁忌や意匠、詳細な施工法にまでふれている。初心者にもわかりやすく書かれている実用的な書で、ただ気になるのは、庭の様子や技法について書く時に具体的な庭園名が示されていないことだ。当然、「この庭では、このように」との記述があって然るべきであろう。橘俊綱は、作庭もするが歌人でもある。俊綱は、自分が庭づくりの専門家では無いことを自覚しており、それゆえ作庭に関する資料を集め、書としてしたためたのではなかろうか。
  園芸に造詣が深く作庭家でもある松平定信についても同じことが言えそうだ。松平定信寛政の改革を行った老中として知られているが、35才の若さで失脚した後、築地に浴恩園を造営するなど、建築・庭園・茶道・雅楽・絵画と多方面にわたる趣味人としても名高い。定信は作庭家ではあったが、どちらかといえば庭園研究の方に主眼があったように思われる。それは、『菟裘小録』に示された庭づくりに関する記述を読むとわかる。定信は、技術よりも精神論を強調しているように感じられるからである。
 ただ、作庭家としては園芸に関心が高く、その凝り様は並はずれている。定信は自分の好きな花であった桜(『花の鑑』)、蓮(『清香画譜』)、梅(『梅津之波』)などを図譜として残している。これらの花は、築地に造営した浴恩園で生育していたものである。そして、花だけでなく庭の絵を谷文晁に描かせている。定信は、庭も植物が枯れるのと同じようにようにいずれ消えてしまうことを予想して絵として残したのである。
  また、江戸時代の作庭書に『築山庭造伝』前編・後編というのがある。前編は北村援琴斎が著し、後編は秋里籬嶋が前編を踏まえて、実際に名園を訪れて模写し、より実践的になるように書いたものである。その内容は作庭に臨むにあたって先人の心得を示し、次に景勝の庭の図を模し、庭づくりの助けとなるように、計算して書かれている。著者である北村援琴斎も秋里籬嶋も、プロの作庭家ではないようである。むしろそれ故に、彼らの描いた作庭書はわかりやすかった。四版も出版されたところを見ると、かなり人気があったのだろう。
  さて、現代のガーデニング書、本屋さんや図書館にはあふれるほどある。日本人はこんなにもガーデニングが好きなのかと思うほどだ。しかし、手放しでは喜べない点もある。本の数はこんなにたくさんあるのに、肝心のガーデニングをする場所が、年々少なくなっている。集合住宅に住む人が多くなっているのだから当然ではあろうが、理由はそれだけではない。日本人のガーデニングに向き合う姿勢も変わりつつある。どのように変化しているかを探ってみたい。
 
江戸と西欧のガーデニング
 日本と違って西欧では、園芸家と作庭家の距離は近い。と言うより、園芸をするために庭をつくると言っていいくらいだ。特に古い時代の庭園は、花壇や菜園を中心にしたものが多い。古代エジプト人は方形の庭園に様々な花を植栽して、理想の楽園をつくった。また、西欧庭園の源流の一つであるイスラム庭園の庭づくりは、植物が生育する場であり、園芸イコール作庭となっている。さらに、庭園のデザインに大きな影響を与えたのが、植物の生育に不可欠な水である。かつては水自体が大変貴重なものであり、貴重な水の取り扱いが庭園にさらなる魅力を加えている。
  自然環境が厳しいイスラムやエジプト、インド地域の庭園は、建物に囲まれたサンクチュアリーを実現するものとしてつくられている。植物が希少価値を持つために、イスラム庭園の庭づくりは、ガーデニングは園芸家の仕事のようにさえ見える。庭園づくりとは、美しい花や果実の実りを表現するものであり、楽園をつくり上げるものであった。庭とは豊かな自然を好きなだけ取り込み、つまり人間が自然を意のままにすることを目的としていた。
  「パラダイス」を目指してつくられた庭園には、植物を生育させるための水が不可欠であった。水路や池などの扱いにも趣向が凝らされ、庭のデザインに大きな影響をあたえた。庭の生命線とも言える水を使った噴水やカスケードは、以後の西欧庭園でも庭の骨格を形成してきた。水を人工的に導き入れ、植物も人為的に植えられたもので、周辺の自然の景観とは全く異質な光景であった。このような庭のデザインは、イスラム庭園のみならず西欧庭園にも引き継がれている。
 これに対し、日本の庭園では当初から、植物の取り扱い方が違っていた。日本では、植物は植えなくても自然に育つものであり、したがって必要な植物は植えるが、不必要な植物や雑草は除去するという作業が不可欠であった。日本では庭園が管理されなくなっても、自然の生態に近い状況が成立していれば、数年は庭としての形態が維持される。それに対し、イスラムやエジプトでは、水が断たれればたちまち花は枯れてしまい、人手を離れると庭園は荒廃する。
  したがって、日本人と西欧人の庭園観には、まず植物の取り扱いから大きな相違がある。厳しい自然環境下の庭では、自ずと植物を枯らさない、大切にする気持ちが強くなる。庭園は、オリーブなどの果樹園や菜園という有用な植物に加えて、緑陰樹や草花が中心の楽園となる。果樹がたわわに実り、美しい花で埋めつくすという形を庭の理想像として求める。だから西欧の人達は、花が枯れれば見苦しいから、枯れ花摘みをすることが当然だと考える。                                                                                               東都歳事記より
イメージ 2  ところが、日本人は植物が枯れても、それを鑑賞しようとする気持ちがある。万葉集に、花の散る様に心を寄せる歌がいくつも詠まれているように、花の最盛期だけが美しいというとらえ方をしない。たとえば、桜。私たち日本人は、花の咲く段階ごとの楽しみ方を知っている。さらに花が散る様や散る過程、散り際までも美しいと感じる感性がある。そして、若葉、成葉、紅葉、枯れ枝、雪の花と、四季を通して様々な鑑賞法を心得ている。庭についても四季折々に楽しむのが日本の庭園の鑑賞方法である。四季の移ろいこそ庭を鑑賞する楽しみであり、朝日を受けた庭、月光に映る庭でと言うように時間の変化、天候の変化をも庭園鑑賞の要素として取り入れている。
  たとえば、鴨長明の「そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。」(『方丈記』より)というような自然鑑賞は日本人特有の形態である。
  鑑賞法の違いについて、西洋のバラ、東洋のボタンを比較するとわかりやすいだろう。ボタンの花は、多少の雨や雪の中でも、日本人は楽しむことができる。だが、バラはそうはいかない。また、江戸では花や庭の観賞で重要なのは季節感だということは、『江戸名所花暦』を見れば一目瞭然である。花暦と言いながら、植物だけでなく鶯、郭公、水鶏、千鳥などの野鳥、蛍、鈴虫などの昆虫、さらには雪、納涼までも含めている。
  日本人のガーデニングの楽しみ方は、日本の風土や気象の複雑かつ繊細な変化に対応するものである。大昔から磨かれてきた日本人の豊かな感性があって初めて成立するものである。特に江戸時代にはその感性が庶民にまで浸透し、日本人ならではの楽しみ方として定着していった。この日本人ならではのガーデニングに対する感性と楽しみ方を是非とも残してゆきたいと願っている。