江戸のくだもの 1

江戸のくだもの 1
 
 
果物の鉢栽培
  庭先に果物を植えて楽しむということは、江戸時代でも行われていた。滝沢馬琴の庭には、カキ、ザクロ、スモモ、ウメ、リンゴ、ナシ、ブドウなどが植えられていた。果物の種類は現代より少なかったことを考えると、馬琴は果物をかなり本格的に栽培していたようだ。事実、庭でつくったブドウを売り、家計の足しにしていた。
  果物は、江戸時代には「水菓子」と呼ばれ、「くだもの」とは言わなかった。なお、「果物」という言葉は、平安時代以前に「唐果物(唐菓子)」として入っていた。また、水菓子と呼ばれるように、木に実る果物・果実だけではなく、真桑瓜なども水菓子であった。「くだもの」の分類・定義は、現代でも、スイカが園芸分野では果菜(野菜)とされるようになかなか難しい。
イメージ 1  江戸時代でも果物の分類は、混乱していたようだ。というより、果物、実を食べるという目的だけでは栽培していなかった。鉢植に果物を成らす、そして、食べるということは今でも行われている。また、食べないまでも実を鑑賞するのが、果物園芸である。しかし、江戸では、果物の葉や変わった形の実を鑑賞した。江戸時代にも美しい花はたくさんあった、なにもわざわざ、果物を選ぶことはないだろうと思うが、そこがまた江戸時代ならではということなのだろう。
  江戸時代の園芸書である『草木奇品家雅見』『草木錦葉集』には、当時食べられていた果物の大半が描かれている。もしかすると、果物ということに拘ったのではなく、たまたま選んだのが、果物であったと言うことかもしれない。だが、『草木奇品家雅見』や『草木錦葉集』をジックリと見ていると、やはり果物を選んでいるように思える。珍しい植物の珍しい葉や実を育てる、という視点があったのではなかろうか。そこで、草木奇品家雅見や草木錦葉集に描かれている図を照会しながら、江戸の果物栽培について見てみたい。なお、その前に、果物の来歴について簡単にふれておきたい。
 
果物の来歴
 果物は水菓子と呼ばれ、「菓子」という字が示すように山野に成る木の実を指していた。それが米や雑穀が主食として定着していくに従って、副食物、嗜好品になったものと考えられる。書物に登場する最初の果実としては、日本にもともとあった桃、栗、葡萄、胡桃などがあげられる。が、これらの果物は、クリを除けば、ほとんどの物は現在の同名の果物とは別の物と思ったほうがよい。したがって大きさもずっと小さく、今の果物のような甘さ、美味しさは望むべくもなかった。
  『古事記』に、垂仁天皇が香果を求めて、「多遅麻毛里」という人を常世国(外国) に遣わしたという記載がある。この時持ち帰った果物は、柑橘類とされているが、具体的には橘、蜜柑、九年母、橙など諸説があり、出かけた国についても朝鮮、中国など複数の説がある。最初に渡来した果物は、おそらく柑橘類の一種であっただろうと推測される。
 奈良時代になると、梨、棗、瓜、梅、柑子など、平安時代には果物の種類が非常に多くなり、柚、枇杷、石榴、蓮子(ハス)、通草(アケビ)、椎子・柿などが登場する。この頃になると、果物の食べ方も多様になり、そのまま食べるだけではなく加工して食べることも始めている。カキは、干柿、熟柿、串柿にし、クリは、搗栗、甘栗、削栗などにして食べたようだ。
 鎌倉時代には、すでに果樹の積極的な栽培が行われていたらしく、文治二年に甲州ブドウの栽培の記述がある。その他、澤茄子などの記述も残っている。室町時代には、外来の果物が増えてきて、金柑、温州橘、林檎、杏、銀杏、菱などがあげられる。安土桃山時代になると、西洋から九年母が伝来したとされている。
  そして江戸時代になると、渡来する果物の種類は多くなり、栽培地域が広がると共に改良も進んだ。たとえば、現代であまり流通をしていないがアンセイカン(安政年間にできた)など、新しい品種も生まれた。なお、渡来した果物の時期は言い伝えが多く、そのまま信じることはできない。そのころであろうというくらいに考えたら良いだろう。
  また、渡来したといっても、加工したもの、文献だけというような場合もあり、実際に栽培されたかという疑問はある。それでも、江戸時代に渡来した果物の名前をあげると、アーモンド、ミカン、マルメロ、ブンタンザボン)、ユスラウメ、イチジク、レイシ、ココヤシ、ブドウ、ピスタチオ、パイナップル、バナナ、レモン、オリーブ、セイヨウリンゴなどがある。
 
栽培の歴史
  どのような果物が栽培されていたかという資料、これも言い伝えの類のものが多い。確かに栽培していた果物でも、いつ頃からということになると、その信憑性はかなりあやしい。栽培していたとする資料よりも、間接的にではあるが、栽培を知ることのできる資料から推測した方が確かなのではなかろうか。たとえば、寛文五年(1665)一月に出された「調理用の魚鳥・蔬菜の季節を規定」から、江戸市中に出回っていたことは確かであり、栽培もかなりの量であったと考えられる。
  江戸に幕府が開かれ半世紀も経つと、江戸庶民の生活は豊かになり、武士より贅沢な町人も出現するようになった。特にたべものは、正月に茄子を食べるというように、初物を競って食べた。あまりにも目に余るので、茄子は四月からというような触れを出した。その中に、枇杷は四月から、揚梅・白瓜は五月から、林檎は七月、柿・葡萄・梨は八月から十一月、蜜柑・九年母は九月から、と記されている。そのことから、ビワ、ヤマモモ、マクワウリ、リンゴ、カキ、ブドウ、ナシ、ミカン、クネンボが食べられていたことがわかる。また、21年後の貞享三年にも初物の規制が出された。その20年余りの間には、果物の種類は増えなかった。
  元禄十年(1697)刊行された『農業全書』(宮崎安貞)の巻八には、菓木の類として、李・梅・杏・梨・栗・柿・石榴・揚梅・葡萄・柑類などについて、性状、効用、適地、栽培法などが記述されている。前述の果物に加えるような、新たな果物は追加されていない。
  その後宝永七年(1709)に刊行された『大和本草』(貝原益軒)には、瓜類として苺(イチゴ)、甜瓜(まくはうり)、西瓜(すいか)などが、果木として橘(ミカン)、柑(クネンボ)、柚、橙、仏手柑、朱欒(ザンボ)、柿、梨、杏(アンズ)、桃、李、栗、楊梅(ヤマモモ)、棗、胡桃、枇杷無花果(イチヂク)、桜桃(ユスラ)、茘枝、銀杏など五十種以上が記されている。新たに加えられたものとして、ブッシュカン、ザボン、イチジク、ライチなどがある。実際に果物としてどの程度食されたかはわからないが、果物の種類は増えていった。             江戸名所図会より
イメージ 2 文政七年(1824)に刊行された『武江産物誌』(岩崎灌園)には、江戸周辺で生産される果物と産地が記されている。まくわうり(鳴子村・府中)、西瓜(大丸・砂村)、梅(杉戸)、梨(川崎・下総八幡)、林檎(下谷・本所)、くわりん(草加下谷)、柿(草加・赤山)、びわ(岩槻・川口)が江戸庶民の口に入っていたことがわかる。
 文政十一年(1828)、岩崎灌園は本邦初の大植物図譜『本草図譜』を刊行した。その巻之六十一から七十二まで果部が記されている。中でも巻六十五目録の果部、山菓類に柑橘類として、橘、なつみかん、柑(みかん)、くねんぼ、ざぼんなど36種もの絵が描かれ充実している。その他の主な果物として、李、杏、梅、巴旦杏、桃、栗、棗、梨、林檎、柿、枇杷、揚梅、櫻桃、銀杏、胡桃、茘枝、椰子、無花果、甜瓜、西瓜、葡萄など、江戸時代の果物と思われるものの大半が描かれている。
  以後、新しく入ってきた果物として、パイナップルとバナナがあるが、庶民の口に入ることはなかった。また、オリーブや西洋リンゴの苗木も輸入されているが、一般には知られることはなかった。この頃に日本で、新しく生まれた果物としては、アンセイカン(安政柑)とハッサク(八朔)がある。
 

イメージ 3  アンズは平安時代に中国から渡来した。花や実を鑑賞することは、古くから行われていたと思われるが、杏の利用は種のみ、薬用であった。本格的に食べるようになったのは文化年間で、それまで利用されていなかった果肉を乾燥させ、「杏干」としてからである。アンズの実は傷みやすいため、生食として販売しにくく、なかなか普及しなかったのだろう。
  アンズは、『農業全書』や『大和本草』に記されているが、どういうわけかその後に出された『広益地錦抄』には記されていない。鉢植などの園芸用として、重きが置かれていなかったためだろうか不思議である。もしかすると、未熟な果肉や種子は、梅と同様、胃酸に反応して青酸が分解されることから、避けられていたのかもしれない。