朝顔

 
薬用植物として伝来したアサガオ
イメージ 1  アサガオは、今も昔も日本人に最も好まれる花の一つであろう。派手さはないが粋な感じのする色合い、姿形の清々しさ、日本的な花という表現がびったりのアサガオは、ジャパン・モーニング・グローリーという呼び名で世界中に広く知られている。
 と言っても、アサガオは、奈良時代の末頃、遣唐使が薬種の牽牛子(けにごし)として中国から持ち帰ったのが最初と伝えられているように、もともと日本に存在していた植物ではない。原産地は南アジア、ネパールなど種々の説があり、定かではない。渡来した当初は下剤などの薬用として栽培されたが、その頃の花は青色で小ぶりの地味な花だったようで、鑑賞用として広まるのはずっと後になってからのことである。
 下剤として使われた話としては、『今昔物語』の一節に次のような話が出てくる。“平安朝末期に神輿をかついで暴挙をふるった叡山の荒法師に手を焼いた朝廷方が、一策を講じて、彼らにアサガオの種子の汁を入れた酒をふるまった。さすがの荒法師たちもにわかに腹具合が悪くなり這這の体で退散した”と、朝廷人のしてやったりの表情が想い浮かぶ。
 ところで、アサガオが観賞用として改良栽培されるようになったのは、江戸時代の後期(18世紀)からであるが。園芸観賞用としてアサガオの品種改良を本格的に進めたのは日本だけであった。アサガオは日本の気候に適していたのか、江戸の風土に育まれて目ざましい発展を遂げ、現在に至っている。

変化アサガオの魅力
     朝顔三十六花選より
イメージ 2 アサガオといえば、ごく普通の丸い花を思い浮かべるが、江戸時代、特に19世紀始めに流行したのは、ラッパ型の花とは似ても似つかぬいわゆる「変化朝顔」である。この「変化朝顔」は、花の形が風車のようであったり、花弁が細く長くたれさがっていて花火のようだったり、雄しべ、めしべがかがり火のように突出していたり、おおよそ我々が知っている普通のアサガオとは、かけ離れた奇妙キテレツなものであった。さらに、葉や茎も珍奇さでは負けてはおらず、松葉状、握りこぶし状(いずれも葉)、つるなし、茎が平べったく帯のようになったものなどがあり、実に千変万化な形状を見せている。           
 一体誰が、何を思って、こんなふしぎな花を手がけたのだろうと首をひねりたくなるが、起源は文化三年の大火後、下谷のあたりが、広大な空地となり、そこに植木屋たちが色々な珍しい朝顔を咲かせたのが始まりらしい。したがって、その時点では、特別なドラマはなかったようだ。それがやがて、幕臣や僧侶、裕福な町民にとっては目先のかわった趣味として、また、下級武士には、生活の糧として重宝がられ、やがては一般庶民にまで裾野は広がっていった。
 我々が慣れ親しんでいる普通のあさがおは、実った種を翌年まくと、またほぼ同じ丸形の花を咲かせるが、「変化朝顔」とは特殊な遺伝の組み合わせによって、種からではなく、親木の選択から始めるものであった。文字通り苦労に苦労を重ねて、見る人をアッと言わせるようなとんでもない花を咲かせるという醍醐味がある。
 この「変化朝顔」は、種を結ばない、一代限りの花である。だからこそ、突如として姿を現す貴重な花への感動と愛着は、並々ならないものであっただろう。
 
名前は遺伝の素性をあらわす                                            朝顔三十六花選より
イメージ 3 丹精して作られた「変化朝顔」には、名前がつけられたが、その名前も現代人の感覚から見ると奇妙なものであった。たとえば、「孔雀変化林風極紅車狂追抱花真蔓葉数莟生」とか「泡雪掬水葉紅掛鳩地工黒鳩刷毛目台桔梗袴着咲」とか、呪文か何かとしか思えないような名前がついている。これは花銘であって品種名ではない。個体の遺伝子的特徴をすべて列記したためこのような名前になった。
  アサガオの流行は文化年間(1804)から始まったが、それは、遺伝の法則を発見したメンデル(1822年生)が生まれる以前のできごとである。一年草であるアサガオの栽培、特に変化アサガオは、突然変異がどのように起きるかを前もって予測できていなければならない。単なる偶然だけで園芸植物の珍種が誕生していたわけではないのだ。園芸家は、変化朝顔の遺伝子は分離可能であり、独立に遺伝することを経験的に理解していたようだ。つまり、遺伝という言葉はなかったが、原理は十分理解していて、その応用を変化アサガオに試みていたものと考えられる。ただ、アサガオの園芸書には最も重要な部分、受粉や法則について記すという科学的な原理に触れなかった。科学的な検証ができないため、単なる偶然と言ってしまえばそれだけである。が、理論として説明はできなくても、遺伝の法則を直観的に把握していたということは十分考えられる。少なくても、そう考えても不自然ではないくらい、江戸時代の園芸専門家の植物観察のレベルは、非常に高かったと言える。
  たとえば、アサガオの原種の薄青色の花色には、10種の遺伝子が関係していて、花青素に関するふたつの遺伝子のどちらかが欠けても白色になる。逆に言えば、白色と白色を交配して有色の花が出現する可能性もある。花の色や葉の形は、遺伝子の違いによって多様に変化する。そして、これらの変化はメンデルの法則に従って現れる単純なものもあるが、多数の遺伝子が関係してひとつの形状を作ることも多く、きわめて複雑である。
 アサガオの花色の増加は、十七世紀後期『花壇地錦抄』(三代目伊藤伊兵衛)には白・浅黄・赤・瑠璃・瑠璃紺であったのが、十八世紀半ばに出された『物類品隲』(平賀源内)には、数十色の花の色が数えられるようになっている。この事をもっても、単なる偶然の産物とは考えにくい。
 
アサガオの流行
           朝顔三十六花選より
イメージ 4  アサガオの流行は、浮沈をくり返しながら、数回起こっている。第一回は十九世紀の前半、文化・文政・天保年間にかけて、2回目は幕末で嘉永から安政年間(1848~1859)にかけて、そして、最後が明治・大正時代のアサガオブームである。 第一期は大阪での流行が先で、江戸で最初の朝顔図譜『阿さ家宝叢』(1817)を出した四時庵形彰、大坂での最初の朝顔図譜『花壇朝顔通』を出した壺天堂主人、大坂における変化朝顔熱の先導者である。峰岸正吉ら「朝顔師」(好事家の一部も含む)の活躍が大きい。
  また同時期、毎年のように「花合わせ」を催し、その時の結果を一枚刷りの番付に記録した。この花合わせ番付けは現在ほとんど残っていないが、現存するものの中では文化13年(1816)の大坂の番付、文政2年(1819)の江戸の番付が東西の最古参であろう。番付けには、「七小町」「須磨の浦」「時雨かさ」「美よし野」「漣(サザナミ)」などの情緒ある名が並んでいる。
  天保年間になると、アサガオの中心地は下谷から今でも朝顔市で有名な入谷に場所を移した。植木屋たちは各々、販売を目的とした朝顔園(別名朝顔屋敷)に、人目をひくのぼりを立てて、丸咲き朝顔、変化朝顔の鉢植を陳列、即売し、江戸の夏を彩る風物となった。
 続く二度目のブームは、黒船来航からはじまる幕末期である。幕府は内外に難問を抱え、政情はもちろん、世情も不安定な中、園芸ブームは衰えなかった。「花合わせ」は、浅草、亀戸などで開催され、『朝顔花併』『朝顔三十六花撰』『三都一朝』『朝顔譜』『両地秋』『都鄙秋興』『朝閉々美』などの図書が続々と作成されている。
 この時期のアサガオブームの立役者は、植木屋を営む成田屋留次郎という人物である。実名は山崎留次郎だが、八代目市川団十郎のファンであったため成田屋を名のったと言われる。文化8年(1861年)に生まれ、明治24年(1891)没。享年81歳というから、当時としては長寿の人であった。植木屋の本業の他にもアサガオやサボテンの栽培家、花合わせの世話人などとしてもつとに有名で、いったん下火となったアサガオブームを再燃させた立役者である。
  三回目の大ブームは明治の10年代からである。この頃になると幕末から維新へと続いた動乱の世にようやく落ちつきが戻った。人々の心にも花や木に目を留めるだけの余裕が生まれ、朝顔市が入谷で開かれるようになり、再びアサガオの名所として栄えるようになった。10数軒もあった朝顔園の開園初日は、この時代、常に7月15日と決まっていたが、アサガオだから当たり前といえばそれまでだが、開園時間が未明から午前10時までで、人出のピークは午前5時から7時ごろまでであったという。何千鉢ものアサガオを見んと、夜明け前から、庶民はもとより華族や幕閣の幕臣らもこぞって出かけ、入谷周辺は人、人、人でごったがえした。鉢の相場は大鉢25銭以上、中鉢15銭以上、小銭5~6銭と記録されているがこれらはもちろんふつうの丸咲き朝顔の値段であろう。
  明治17年には、入谷の朝顔市に黄色い朝顔が出品されるとニュースになった。また、この頃、歌舞伎の名場面の模した朝顔人形という見せ物も人気を呼んだらしい。
 一方、変化朝顔については一時栽培者が急減していたのが、明治20年代ごろから徐々に盛りかえし、第一回品評会(於牛込)を開くまでにこぎつけた。品種も獅子咲、牡丹咲、桐性、細葉ものなどが現われ、大輪のアサガオも改良が進められ、明治20年ごろには八寸咲き(約23cm)が存在したとされている。
 
蕣(アサガオ)塚の供養
イメージ 5 いつの時代でも美しい花、珍しい植物を求める熱意は存在するが、特に江戸期のアサガオに対する執念とでも言えるこだわりは、宗教や信仰に近いものを感じさせる。
 それは、文政年間に建立された「蕣塚」(豊島区、雑司ケ谷の鬼子母神内)を見ても伝わってくる。これは、アサガオに限ったことではなく、園芸植物を栽培し、納得できる花を作ろうとすれば、数多くの苗を育て、その中からよりすぐれたものだけを選ぶことになる。選外の苗は、不要となり廃棄される。特に、「変化朝顔」においては、良い花を得ようとすると、千粒万粒もの種のなかから一二粒ほどしか得られない。他の無数の苗は、当然のことながら廃棄するしか道はない。そこで、これらの多くの苗を供養するため「蕣塚」が作られたのであった。
 アサガオを愛好する人々は、美しい花を得るために、惜しみなく時間を注ぎ込み、園芸技術の粋をきわめるとともに、アサガオを生命あるものとして慈しんでもいた。突如不思議な形の花が出現する「変化朝顔」を育てる時には、祈りに近い感情も自ずと生まれたのだろう。愛好者がアサガオに求めていたのは、単に花の美しさだけをではない、生命の不思議さをも探っていた。
 それにひきかえ、現代の園芸は、己の楽しみだけを求める傾向が強く、植物に対しても、半ば道具のような感覚でしか接しない人々もいる。江戸時代の園芸には、「蕣塚」に見られるように、命のあるものを慈しみ、供養しようとする純な心があった。つまり、自分本位のふれあいではなく、植物の命をしっかりと見つめ、積極的に現世を生きようとするために生命とふれあった。これこそが江戸園芸の神髄である。