江戸のくだもの その2

江戸のくだもの    その2
無花果(仙桃、密果、青桃)
 イチジクは、西南アジア原産で、中国を経て渡来したという説、寛永年間(1624~1644)にポルトガル人によって伝えられたという説、宝永年間(1704~11)に種を得て長崎に植えられ、ここから全国各地に広まったという説、様々な説がある。「いちじく」の名は、『和漢三才図会』には、一月にて熟するというので一熟というとある。また、毎日一つずつ熟すことから付いたとの話もあり、その由来はよくわからない。イチジクには、別名や方言が数多くあり、『樹木大図説』には、タゥガキ、トンガキ・・・など、六十ほどの名が記されている。中でも、唐柿、蓬莱柿、南蕃柿などが別名としてよく知られたものである。
イメージ 1  江戸時代の初期に渡来していた割りには、栽培して美味しく食べたということがあまり話題にならなかったようだ。特に江戸では、初物として販売が制限されるような人気ではなかった、ような気がする。その理由として、イチジクの栽培は乾燥温暖地が適しており、江戸は関西より寒冷で、露地栽培に不向きな果物であったためではなかろうか。そのため、江戸時代の産地としては芸州(広島県)が知られる程度で、果物としての地位はあまり高くなかった。明治になって多くの種類が輸入されたが、それでも普及は広がらず、本格的な栽培が始まるのは大正時代に入ってからである。
  では、江戸では栽培されていなかったといえば、そんなことはなく、珍品として『草木錦葉集』に示されている。「左橋出いちぢく布」とあり、「無花果、葉は桐に似てあつし、芽出し薄黄、後極白布」と解説している。図には、葉だけではなく実も描かれているが、小さく美味しそうには見えない。たぶん、食べなかったのでは、と思うのであるがどうだろう。
 

イメージ 2  カキの種は、弥生時代の墳墓から出土しているところをみると、その頃から食べていたと思われる。また、縄文時代の遺跡からも見つかったともいわれている。なお、中国では約三千年前からカキがあり、紀元前二世紀頃の王家の墓からカキの種が出土している。日本原産のカキがあったかという話については、今後の研究にまかせるとして、今のような大きなカキが中国から入ってきたのは奈良時代頃とされている。
  栽培されたのは、奈良・平安時代からであるが、この時代の柿は基本的に渋柿だったそうだ。そのため、甘いカキは鎌倉時代に生まれた突然変異とされているが、それについても、中国から渡来したものという説がある。平安時代の『新選姓氏録』(815年)には「柿」が出ている。平安時代のカキは、渋ガキであったが、干して甘くする方法を中国から伝えられていた。もって、干柿を甘味料として使うことも普及した。
  甘柿が文献に出てくるのは僧玄恵の『庭訓往来』(1269~1350)であろうから、室町時代に栽培されていたことは確かである。江戸時代になると、カキ栽培を各藩が奨励し、会津見不知(福島)、平核無(新潟)、四ツ溝柿(静岡)などには、現在も古木が残っている。ということで、カキの生産地は全国にわたり、様々な地方特有の種類が作られた。
イメージ 3  各地方のカキは、江戸時代末期には産地に応じて二百品種以上あったとされている。なお、それでいてカキの方言や別名は案外少ない。『樹木大図説』にも十程度しか示されていない。では、「カキ」という名の語源は何か、いろいろな説があるが、「カキ」は「アカキ(赤黄)」からという説がもっともらしい。それも、紅葉と実の色によるものとされている。
  古代では、カキを賞したのは紅葉の美しさであり、「かきもみじ」という表現は、カキならではのものだろう。「秋くれば 山の木のはのいかならん そのふきのかきは もみぢしにけり」(藤原為家・夫木和歌抄より)など、日本人好みの色として受け継がれている。
  江戸でのカキ栽培は、滝沢馬琴の庭に植えてあったように、江戸でもかなり多かったものと思われる。馬琴は、文政十年に風で控えの外れたカキ二本を直している。天保四年には、裏の大柿を盗まれたと日記に記している。栽培の目的は、実であることは間違いなく、江戸っ子の果物として広く浸透していたのだろう。それでも、実だけではなく葉を鑑賞していたことは、『草木錦葉集』に「かき」「水のかき」が描かれていることからわかる。