茶庭 3 豊臣秀吉その1

茶庭 3 豊臣秀吉その1
豊臣秀吉(1537?~1598年)と千利休
  秀吉は、本能寺の変後、天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を行い、結果的に幕藩体制の下地をつくった。秀吉に対する評価は、政治的な面だけではなく私的な面での人間的な魅力あるエピソードがたくさん残されていることもあって、今でも日本人が好む武将として絶大な人気を持っている。
  秀吉は、一般に無学で教養がないと思われているが、それは誤りで、出世とともに文化的修養を積む努力をしている。古典文学や茶道に対する見識は中々のもので、秀吉の残した書(北大路魯山人の評価)や和歌(『豊臣太閤御詠草』八条宮智仁親王編纂)は後世高く評価されている。また、金春流に能を学んだ秀吉は、前田利家徳川家康らと共に天皇の御前で演じるという栄誉も得ている。とりわけ、茶の湯については、千利休や吉田織部に劣らぬくらいの功績があると言っても良いだろう。
  ただ、秀吉は、その道の専門家のように真摯な態度で取りくむのではなく、無邪気に楽しむことに専念していた。特に茶の湯は、多分にパフォーマンスも兼ねていたようではあるが、茶道の発展や茶庭の成立に大きな影響をあたえている。意外に見落とされているが、茶の湯における千利休の功績は秀吉という大きな背景があったからこそである。秀吉を無視し利休の「わび茶」は考えられない。と言うのも、「わび茶」という四畳半より狭い茶室での簡素な茶の湯は、秀吉と利休との関係が深まってから本格的に始まったものである。
 秀吉が信長の許しを得て初めて茶会を開いたのは、天正六年である。そのころ利休は信長の茶頭をつとめ、書院の茶を行っていた。秀吉と利休の関係が深くなるのは、本能寺の変天正十年1582)後の天正十一年三月に、利休がはじめて秀吉の茶頭をつとめてからだろう。三畳敷き以下の茶席は利休の創案と思われがちであるが、天正十年の山崎の戦いのおり、陣中に二畳敷きの茶室「待庵」を利休に建てさせたのは、実は秀吉である。その後も、秀吉は三畳敷きの茶室をつくらせている。かの有名な「黄金の茶室」も三畳敷きである。ところで、茶室の広さということに関して言えば、「黄金の茶室」は空間の納まりから三畳が最も適している。つまり、「黄金の茶室」は、必ずしも「わび茶」と室内の広さのものは絶対的な関係ではないことを示していると思われる。
 「わび茶」の浸透に伴って小座敷が普及したのは確かで、天正十四~六年頃に数多く開かれている。小座敷は、山上宗二千道安など利休の身内・弟子たちには支持されたが、当時の実力派の茶人には波及しなかったことを考えれば、利休の影響によることは確かである。利休は以後、ひたすら「わび茶」へ傾倒していき、今日に至る茶道の基礎を完成させた。それに対し、秀吉は、茶の湯をもっと柔軟に捉えており、利休の支持者ではあるが、必ずしも利休の志向だけに拘らないということである。
 言いかえれば、秀吉の茶は、性格を反映して、利休の「わび茶」を含めて、形式に捕らわれず広く楽しもうとしたのであろう。重要なことは、それでいても、秀吉は「わび茶」を的確に理解していたことである。理解した上で、それに独自の自由な発想を取り入れながら「茶の湯」を行ったこと、実はこの姿勢こそ、これから述べようとする茶庭や大名庭園の成立、発展に結びつくのである。
 
茶会の花
 そこで、ガーデニングということで花や庭に関連することを中心に見て行こう。秀吉が花や庭に本格的な関心を持ったのは、本能寺の変天正十年1582)以降ではなかろうか。華やかな桃山文化パトロン兼理解者として、文化活動を積極的に推進するのは、やはり天下を取ってからだと思える。前述のように、秀吉は芸術面の素養が深く、また若いころからの城づくりの経験から、造園の分野に対しても見識の高かったことは言うまでもない。ただ、墨俣の一夜城のように、真偽のあまりはっきりしない逸話や伝承といったものが多く、秀吉が関与をしたことを証明するのは難しい。大半は、秀吉の人柄や当時の状況を説明するために、あとから付け加えられたようなものが多く、到底そのまま信じるわけにはいかない。
  たとえば、ある茶会で秀吉は、大きな金の鉢に溢れるばかりに水を張り、その横に紅梅の枝を添え、利休にこの梅を鉢一ぱいに生けよと指示した。利休は枝の花と蕾を鉢の水面にしごき、風情ある景色を見せたという。この話などは、茶会の場所も日時も定かでない明らかに逸話である。また、秀吉が利休の庭に朝顔を見に出かけたという、有名な朝顔の逸話など、秀吉の花への関心を連想させることはできるが、やはり真偽のほどが疑われる。そのような中で、花について場所と日付が確認できるのは、天正十五年十月二十一日に大坂城の山里丸で催した茶会の小車、天正十八年九月二十三日に聚落第で催した茶会の野菊など、その事例は少ない。
  聚落第での話は、秀吉が天目茶碗の中に肩衝茶入を入れ、その間に野菊を一本差し込んだ。利休は、野菊をさりげなく取り扱い、秀吉の企てに翻弄されることなく茶会を進めたという。これら茶会での花にまつわる話の多くは、利休の巧妙譚に結びついており、秀吉の花の好みを探るには物足りないように感じる。