茶庭 5 千利休(1522~1591年)その1

茶庭 5 千利休(1522~1591年)その1
 
 千利休の「わび茶」
  千利休について書かれた本は、どのくらいあるかわからないくらい出ている。その大半は、茶の湯「わび茶」に関することである。では、利休自身が茶の湯について書いたものがあるのかといえば、実は茶の湯について何も書き残していない。また、利休のことについても、何か書き残されているかといえば、秀吉と関わる以前(六十歳まで)は、史実としての資料はあまりない。現在語られている利休の足跡は、大半が伝承をもとにして語られたものである。
  利休が茶の湯をはじめた動機も、教養か遊芸か定かではなかったのではないか。当時の堺の商人は、信長と関係を得るため茶の湯に勤しんだ。また信長にしても、茶会を開いたのは、純粋に芸事を楽しむためのものではなかった。本当の狙いは、接待した豪商から軍資金を引きだすことであった。そして、今井宗久ら堺の商人は、その見返りに権益を得た。つまり、信長は、茶の湯を一つのステータスとして、また、政治の道具として利用したと言える。
  茶の湯は、こうして次第に権力者との結びつきが強くなり、社会的な地位が高くなった。信長なきあと、秀吉は利休を茶頭に命じた。利休は茶の湯を通して得られた情報や人間関係から、政治的な面で自らの地位を高めた。利休のわび茶は、秀吉の権威と経済力を背景に集大成されたと言って良いだろう。利休が、いかに卓越した能力を持っていても、時の権力者の後楯なしに、茶の湯をあそこまで高めることは困難であった。
 秀吉の天下統一が進むと、利休の周辺事情に少なからず変化が起きた。まず、石田三成の手で堺は完全に従属させられた。堺商人の経済力は削がれ、利休の政治的な役割も低下した。また、秀吉の弟である秀長が他界したことで、利休は大きな後ろ楯を失う。こうして利休が、茶会を通して政治や経済にまで関与できた時代は終わりを告げた。
  利休は、この変化にどのように対応したのだろうか。茶頭であった晩年の利休にできることは、茶の湯によって己の地位を確立させることしかなかった。そしてその意志がわび茶の完成へと行き進めた。またそうしたのは、茶の湯の役割が大きく変化していたにもかかわらず、高齢の利休は対応できなかった。いや、むしろ対応しなかった、と言うべきかもしれない。利休が己の生きる道を選ぶとなれば、茶の湯以外の選択肢はなかったはず。
 利休は、わび茶にたどり着くまでの間、秀吉に協力して茶会を繰り返した。その集大成が利休の「わび茶」である。わび茶の発想自体が秀吉にも大きく影響を受けていることは、利休も自覚していたようだ。有名な黄金の茶室、そしてそれと対照的な待庵(妙喜庵)はいずれも秀吉の発案で、それをもとに利休が制作している。したがって、わび茶の完成を、道陳や玄哉たちの茶に師事し、珠光に傾倒したことによるとする説には納得しがたいものがある。六十歳を過ぎてから、若い頃の師匠や直接師事したこともない人の志を汲んで、わび茶に転向するだろうか。
 茶庭についての利休の功績は、それまで茶室への単なる通路に過ぎなかった空間を、路地として積極的に茶の湯の空間としたことである。これによって、茶の湯は、客が訪れた時点から、茶を喫して退出するまでの連続した時間を「一期一会」の芸術として完成したと、評価されている。だが、具体的にどのような空間を利休が提案したかということについては、定かではない。
 
利休の茶庭に関する創意
  千利休は、三畳、二畳の草庵茶室の創出し、躙口(潜り)を構え、わび茶を大成させたとされている。躪口というのは、淀川河畔の漁夫が船小屋に入る様子から考案されたと言われているが、原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られるし、商家の大戸にある潜りなど、必ずしも利休の発明とは言えないとの見方もある。確かにこのような狭い茶席は、なにも利休が最初ではない。たとえば、二畳半の茶席については、「武野紹鴎が山本助五郎という人のために好んで作図した茶席」という伝えがある。また、三畳についても、利休以前に明智光秀坂本城に設けている。このように、三畳、二畳の茶室が本当に利休のオリジナルと言い切れるかについては、異論があるわけだが、かといって、光秀のように茶室を一つ先につくったからといって、それだけで光秀を草庵茶室の創始者とすることにも問題がある。利休は物理的に茶室という空間をつくっただけでなく、使用方法にまで関与しているからだ。茶の湯という総合的な視点から見ると、やはり利休をしのぐ功労者はいないというべきだろう。
  さらに、利休は、茶席の路地に中門を設けた。路地を内と外に分け、内側を超俗の世界と規定したという。では、路地についてはどうか。数寄屋や茶道具について、利休が形態や材質などについてどのようにプロデュースしたかを追うことができる。だが、中門で区切られた路地を含む空間については、どのような景観が成立したかその姿は不明である。もし、後の人々が言うように、中門内の路地空間が超俗の世界であるというなら、何を持って超俗と言うのか、広さや施設配置など、超俗の条件を具体的に知りたいものだ。残念ながら、それを証明するものは何も残っていない。加えて、超俗の世界とされる場で、権力をほしいままにしていた秀吉が、超俗にふさわしくない様々なパフォーマンスを楽しんでいる。その点について、利休の茶の湯の精神とは矛盾するように思うのだが、どうだろうか。
 そもそも、利休は作庭をメインの仕事としていたわけではなく、路地や中門の詳細を問うこと自体に無理がありそうだ。どの路地もあたかも利休の手でつくられ、路地にも利休らしい見識があったように思い込ませようとする見方に問題がある。路地に関しては、利休に関して書かれた書物を見ると、ほんの少しでも利休が路地に関連しそうな事柄があると、すべて利休の手柄のように捉える向きがある。しかも、本当かどうかわからないのにそれを大前提にして、さらに研究を重ねていくような傾向がある。利休の路地に関する話は、多分に、伝説や通説に左右されているように思える。
  特にひどいのは『南方録』を初めとする資料。そこに出てくる利休の路地は、利休の没後に作庭された庭について書かれたものである。いわゆる利休好みとか、利休風と呼ばれるものだが、同様の傾向は、古田織部についても言える。残念ながら、利休や織部のつくった路地は現存していないため、文献に頼らざるを得ないが、その際には史料としてできるだけ信頼できるものから考察する必要がある。