茶庭 6 千利休その2

茶庭 6 千利休その2
茶庭に関する用語と茶庭の成立
  露地や蹲踞というのは、茶庭ならではの用語である。では、いつ頃から使われ始めたのであろうか。『南方録』や『露地聴書』などの書には、利休が「露地」という言葉をごくあたりまえに使い、露地(茶庭)について様々なルールを定めていたかのような印象をあたえている。たとえば、茶庭の必需品とされる石灯籠、茶会記に記されたのは、利休が切腹した年(1591年)の松屋久好の茶会記が初見とされている。そこで、茶庭に関する用語について初見(『茶道学大系  第六巻』等より)を示すと、以下のようになる。
路次・・・・・・・・1581年(天正9年4月11日)『宗及他会記』
手水鉢・・・・・・1586年(天正14年12月19日)『宗湛日記』                 
ハネキド・・・・・1587年(天正15年2月25日)『宗湛日記』
路地・・・・・・・・1587年(天正15年2月25日)『宗湛日記』
飛石・・・・・・・・1587年(天正15年2月25日)『宗湛日記』
外クヾリ・・・・・・1601年(慶長6年4月18日)『織部茶会記』
露地・・・・・・・・1609年(慶長14年)『南浦文集上  茶室記』
畳石・・・・・・・・1612年(慶長17年)『宗春翁茶湯聞書』
にじり上りの石・・1612年(慶長17年)『宗春翁茶湯聞書』
中潜・・・・・・・・1626年(寛永3年)『三斎より将監聞書』
内路地・・・・・・1626年(寛永3年)『草人木』
二重路地・・・・・1626年(寛永3年)『草人木』
外路地・・・・・・・1626年(寛永3年)『草人木』
下腹雪隠せつちん・1626年(寛永3年)『草人木』
中路地・・・・・・・1660年(万治3年)『古織伝』
そとせつちん・・・1660年(万次3年)『古織伝』
三重路次・・・・・・1666年(寛文6年)『古田織部正殿聞書』
ふミ石、おとし石・・1673年(延宝1年)『石州三百箇条』
中門・・・・・・・・・・1697年(元禄10年)『杉木普斎伝書』
一重廬地・・・・・・・1697年(元禄10年)『杉木普斎伝書』
手燭石、湯桶石・・1710年(宝永7年)『貞要集』
役石・・・・・・・・・・・・1728年(享保13)『源流茶話』
ツクバイ石・・・・・・・・1824年(文政7年)『良山堂茶話』
  次に、茶庭に関連する人の没年、茶書が成立したとされる年、それに加えて主な庭園の作庭が開始された年を示すと以下のようになる。
     ☆茶庭関係者                          ☆茶書成立                      ☆庭園の作庭
1580年~  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山上宗二記・・・・・・・・・・・・
1590年~  90山上宗二  91利休  93宗久  98秀吉没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98三宝院庭園
1600年~  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・03二条城二の丸庭園
1610年~  15織部没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宗甫公古織へ御尋書・・・・・・・11南禅寺方丈庭園
1620年~ 29智仁親王没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草人木・・・・・・・・・・・・・・・・・20桂離宮  27仙洞御所庭園
1630年~ 35神谷宗湛没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長闇堂記・・・・・・・・・・・・・・・32金地院庭園
1640年~ 46細川三斎  47遠州没・・・・・・・・・・・・・・・細川三斎茶湯書・・・・・・・・・・42栗林公園
1650年~  52松屋久重  56宗和  58宗旦没・・・・・・・・古田織部正殿聞書・・・・・・・・53修学院離宮
1660年~  62智忠親王没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石州流三百箇條・・・・・・・・・・69尾張藩下屋敷戸山荘
1670年~ 72宗左  73片桐石州没・・・・・・・・・・・・・・・茶譜?・江岑宗左茶書?・・・・・78玄宮園
1680年~ 80後水尾上皇没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・茶道便蒙抄・・・・・・・・・・・・・87後楽園
1690年~ 99藤村庸軒没・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・南方録・茶道三伝集・・・・・・・95六義園
1700年~ 06杉木普斎  07山田宗徧没・・・・・・・・・・・茶話指月集・・・・・・・・・・・・・
  庭園の作庭時期については、開始後、その形が大きく変わってしまうため一概には言えない。たとえば、築庭経緯が比較的わかっている三宝院庭園は、1598年秀吉が元の庭を改造したもの。さらに、秀吉没後に蓬莱島が削られたり、橋が架けられたりしている。1610年完成と『義演准后日記』に記されているが、その後も滝がつくられたり、庭石が組まれるなど当初と比べると、庭の様子はかなり変化している。このように後の管理によって作風が変わるのが常である。路地のような簡易なつくりの庭は、特に改変が容易なので、今現存している形をもって、作庭当初と同じとは言い切れない。
  数寄屋(茶室)の整備に伴い、路地がつくられていったことは間違いないと思われる。だが、茶人たちの間では建物や茶器のような熱心な関心はなく、路地というものの共通認識はまだ浸透していなかったと思われる。そこはやはり、茶庭に関する用語が使われるようになってから、茶庭も成立したと考えるべきだろう。事実、茶庭を表す「路地」やその路地に不可欠とも言える「トビ石」という言葉は、利休が亡くなる4年前の1587年(天正15年)、『宗湛日記』において初めて認められる。また、利休はもちろんであるが、古田織部が生存していた頃にも、「内路地・二重路地・外路地・下腹雪隠せつちん」の用語は使用されていなかった(『古田織部伝書』に記載なし)。「中路地・そとせつちん・三重路地・ふミ石、おとし石・手燭石、湯桶石・ツクバイ」などという用語も、小堀遠州の生存していた頃には成立していなかった。
  また、茶書に図が載せてあるからといって、それを現代の設計図と同じ精度で見るのも問題がある。本当に利休が生きていた頃に描かれたという保障はあるのか、たとえば、『露地聴書』に描かれている飛石は、どう見ても利休好みの石には見えないからだ。
  言葉として世間に浸透する以前から、実体が存在したことは確かであろう。が、それだけでは十分ではない、言葉としても広く認知され、茶人の間で共通の言語として普及することが重要なのである。草庵茶室は利休の創意としたのと同じ理由から、路地の形態まで利休の創意であると強調するには無理がある。