江戸のくだもの その6
蜜柑
元禄年間に紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得て豪商になったという話は有名である。そのミカンが紀州ミカンである。
紀州ミカンは、明治時代になって温州ミカンが登場するまでわが国の代表的な柑橘類であった。一般にコミカンと呼ばれ、紀州ミカンは中国原産で黄厳県の蒔橘、一名金銭桔と同じ物だといわれている。紀州ミカンは中国から九州西岸に入り、本州に広まった。名前は、産地毎につけられ、八代ミカン(熊本)、河内ミカン(熊本・福岡)、肥後ミカン(熊本)、桜島ミカン( 鹿児島)、津組ミカン(大分)、蒲刈ミカン(広島)、泉州ミカン(大阪・和歌山)、紀州ミカン(和歌山)と様々な呼び名がある。中でも、和歌山県の有田地方で栽培されたものが、江戸に出荷され名声を博したので、広く紀州ミカンと呼ばれるようになった。なお、鹿児島の桜島では、薩摩藩主島津義弘が普及させたミカンが、安永の噴火(1780)の際に枯死し、その数21,500本にのぼったと当時の藩主島津重豪は幕府に報告している。
また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からミカン(紀州ミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡地方のみかんの起源とされている。果実は小さく扁球形、タネが多いことから「子宝運」をよくするとして栽培されていたが、明治以後は逆に敬遠されるようになった。
なお当時の気候では、紀州ミカンは江戸では寒く、栽培できなかったようである。鉢植で栽培することもできなかったのであろうか、『草木奇品家雅見』や『草木錦葉集』にも図はない。
蜜柑
元禄年間に紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得て豪商になったという話は有名である。そのミカンが紀州ミカンである。
紀州ミカンは、明治時代になって温州ミカンが登場するまでわが国の代表的な柑橘類であった。一般にコミカンと呼ばれ、紀州ミカンは中国原産で黄厳県の蒔橘、一名金銭桔と同じ物だといわれている。紀州ミカンは中国から九州西岸に入り、本州に広まった。名前は、産地毎につけられ、八代ミカン(熊本)、河内ミカン(熊本・福岡)、肥後ミカン(熊本)、桜島ミカン( 鹿児島)、津組ミカン(大分)、蒲刈ミカン(広島)、泉州ミカン(大阪・和歌山)、紀州ミカン(和歌山)と様々な呼び名がある。中でも、和歌山県の有田地方で栽培されたものが、江戸に出荷され名声を博したので、広く紀州ミカンと呼ばれるようになった。なお、鹿児島の桜島では、薩摩藩主島津義弘が普及させたミカンが、安永の噴火(1780)の際に枯死し、その数21,500本にのぼったと当時の藩主島津重豪は幕府に報告している。
また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からミカン(紀州ミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡地方のみかんの起源とされている。果実は小さく扁球形、タネが多いことから「子宝運」をよくするとして栽培されていたが、明治以後は逆に敬遠されるようになった。
なお当時の気候では、紀州ミカンは江戸では寒く、栽培できなかったようである。鉢植で栽培することもできなかったのであろうか、『草木奇品家雅見』や『草木錦葉集』にも図はない。
桃
モモは古くからわが国に存在していたが、それが原産種なのか、大陸から渡来してきたものかは不明である。果樹としては江戸時代から栽培されていたようだが、これらのモモは小型で果肉も固く、現在のモモとはまるで違うもので、明治末期には全く栽培されなくなった。江戸時代のモモとして、カラモモ(寿星桃、西王母)やカンモモ(寒桃、冬桃)などがある。カラモモは、『本草図譜』によれば、巴旦杏に似て、12尺(3.6m)の木とある。カンモモは、花一重、果実は冬近くに熟す。春まで貯えうる、味よし、九月、十月に熟すという記述がある。
なお、花としてのモモの栽培は古く、元禄時代には品種改良が盛んに行われ、光桃、毛桃、美人桃、五月桃、華糸桃などの品種があったとされている。また、『本草図譜』には、山桃、五月早桃、油桃、秋桃、よろいとほし、ほうきもも、十月冬桃、餅子桃、いつさいもも、源平、げんじぐるま、菊桃、きくもも、白桃、しろほうきもも、さんせつ、緋桃、さがみしだれ、ざんせつしだれ、あめんどうなどが記されている。これらの桃は、大半が花の観賞で、秋桃や餅子桃などが食べられるとある。
江戸では、大半が観賞用のモモが栽培されていたのだろう。『草木錦葉集』には「基蜩庭生もも」が描かれている。
モモは古くからわが国に存在していたが、それが原産種なのか、大陸から渡来してきたものかは不明である。果樹としては江戸時代から栽培されていたようだが、これらのモモは小型で果肉も固く、現在のモモとはまるで違うもので、明治末期には全く栽培されなくなった。江戸時代のモモとして、カラモモ(寿星桃、西王母)やカンモモ(寒桃、冬桃)などがある。カラモモは、『本草図譜』によれば、巴旦杏に似て、12尺(3.6m)の木とある。カンモモは、花一重、果実は冬近くに熟す。春まで貯えうる、味よし、九月、十月に熟すという記述がある。
なお、花としてのモモの栽培は古く、元禄時代には品種改良が盛んに行われ、光桃、毛桃、美人桃、五月桃、華糸桃などの品種があったとされている。また、『本草図譜』には、山桃、五月早桃、油桃、秋桃、よろいとほし、ほうきもも、十月冬桃、餅子桃、いつさいもも、源平、げんじぐるま、菊桃、きくもも、白桃、しろほうきもも、さんせつ、緋桃、さがみしだれ、ざんせつしだれ、あめんどうなどが記されている。これらの桃は、大半が花の観賞で、秋桃や餅子桃などが食べられるとある。
江戸では、大半が観賞用のモモが栽培されていたのだろう。『草木錦葉集』には「基蜩庭生もも」が描かれている。
林檎
リンゴと言っても、現代のリンゴとは異なり、ワリンゴである。西洋から入ってきたリンゴに対し既存のリンゴということで区別するために、ワリンゴというようになった。したがって、江戸時代には、リンゴと呼んでいたのは当然のことである。樹高は現代の木と変わらないが、実の大きさは4~5㎝程度で、濃く紅染する。
わが国でリンゴの名前が出てくるのは、鎌倉時代の中頃からであるから、中国大陸から渡来したのはそれ以前だと推定される。その後もリンゴの名は、僧玄恵(1269?~1350)の『庭訓往来』、一条兼良撰(1402~1481)の『尺素往来』などに出てくる。当時のリンゴは、今のりんごに比べて糖度は低く、少し渋味もあって味は劣るが、当時としては結構おいしく感じたのであろう。そのため栽培は続き、江戸時代にはリンゴ栽培がかなり普及したことは、黒川道祐の『擁州府誌』(1684)に書かれている。
『草木育種・下』(1818)には「江戸下谷本所辺の土地相応せり、根廻りを少し高く植て湿気を滲すへし、山の野土、赤土皆悪し、春の彼岸に海紅の砧へ接へし、尤もきり接よび接ともによし、又海棠の根を採りて砧にして接ぐもよし、九十月に植え替へてよし、十一月頃より小木は近く大木は遠く根廻りを堀り根先の細き所は切りてよし、冬中腐たる人糞を澆くへし三四月の頃多く虫を生ず、芽より生じて葉を食ふ小く黒き虫巣をかかるをよく取るべし、又梢に鮫の如き卵ありと嶋ある毛虫となる。燈油をつけて取り捨つへし、二三月頃古枝を伐すかすへし、種樹書に曰く林檎蛙は鉄線を以て穴内を尋ねて鑽刺すへし、百部杉木丁を用いて之を塞く毛虫を生じるが如くば魚腥水を以て根に潑く或は蚕蛾を地下に埋む。」とある。
リンゴの栽培は、結構面倒くさい作業をしなければならないことがわかる。もしかして滝沢馬琴は、この本を見てリンゴの世話をしていたのではないかと思わせる。
さて、西洋からのリンゴは、安政四年(1857)、米国公使から宿泊所を提供してくれた芝・増上寺に苗木が送られている。また、文久年間(1861~63)には、福井藩主松平晴嶽の江戸巣鴨の別邸に、米国種を植栽したと『果樹園芸新書』(柘植六郎)には記されている。ただ、これが現在の西洋リンゴか否かは、はっきりしない。
リンゴと言っても、現代のリンゴとは異なり、ワリンゴである。西洋から入ってきたリンゴに対し既存のリンゴということで区別するために、ワリンゴというようになった。したがって、江戸時代には、リンゴと呼んでいたのは当然のことである。樹高は現代の木と変わらないが、実の大きさは4~5㎝程度で、濃く紅染する。
わが国でリンゴの名前が出てくるのは、鎌倉時代の中頃からであるから、中国大陸から渡来したのはそれ以前だと推定される。その後もリンゴの名は、僧玄恵(1269?~1350)の『庭訓往来』、一条兼良撰(1402~1481)の『尺素往来』などに出てくる。当時のリンゴは、今のりんごに比べて糖度は低く、少し渋味もあって味は劣るが、当時としては結構おいしく感じたのであろう。そのため栽培は続き、江戸時代にはリンゴ栽培がかなり普及したことは、黒川道祐の『擁州府誌』(1684)に書かれている。
『草木育種・下』(1818)には「江戸下谷本所辺の土地相応せり、根廻りを少し高く植て湿気を滲すへし、山の野土、赤土皆悪し、春の彼岸に海紅の砧へ接へし、尤もきり接よび接ともによし、又海棠の根を採りて砧にして接ぐもよし、九十月に植え替へてよし、十一月頃より小木は近く大木は遠く根廻りを堀り根先の細き所は切りてよし、冬中腐たる人糞を澆くへし三四月の頃多く虫を生ず、芽より生じて葉を食ふ小く黒き虫巣をかかるをよく取るべし、又梢に鮫の如き卵ありと嶋ある毛虫となる。燈油をつけて取り捨つへし、二三月頃古枝を伐すかすへし、種樹書に曰く林檎蛙は鉄線を以て穴内を尋ねて鑽刺すへし、百部杉木丁を用いて之を塞く毛虫を生じるが如くば魚腥水を以て根に潑く或は蚕蛾を地下に埋む。」とある。
リンゴの栽培は、結構面倒くさい作業をしなければならないことがわかる。もしかして滝沢馬琴は、この本を見てリンゴの世話をしていたのではないかと思わせる。
さて、西洋からのリンゴは、安政四年(1857)、米国公使から宿泊所を提供してくれた芝・増上寺に苗木が送られている。また、文久年間(1861~63)には、福井藩主松平晴嶽の江戸巣鴨の別邸に、米国種を植栽したと『果樹園芸新書』(柘植六郎)には記されている。ただ、これが現在の西洋リンゴか否かは、はっきりしない。