茶庭 8 千利休その4

茶庭 8 千利休その4
  利休の茶庭を構成する具体的なものを記した史料がないものかと探すと、「植栽樹種」と「手水鉢」に関する史料が見つかった。どこまで利休の茶庭に迫れるかを試みた。
 
利休が植えた樹木
  茶庭について、具体的な形を求めた意欲的な研究がある。それは、『茶庭における植栽の変遷に関する史的考察』(浅野二郎他)である。茶書をもとに茶庭の植栽の変遷を研究したものである。その中に、利休が茶庭にどのような木を植えたかが示されている。
  茶書には、茶庭に植栽する際の注意事項がいろいろと記述されている。だから、これを読めば、利休の茶庭に対する考え方がわかり、実際に植栽した植物名も推測できるものと期待できそうである。だが、『宗湛日記』『山上宗二記』『松屋会記』『細川三斎御伝受書』『細川三斎茶湯書』『茶道便蒙』には、茶庭の植栽樹種が一種類も出現していないことから、樹木の名前はない。
 それが、利休没後百年以上経って出された『茶話指月集』には、マツ、グミ、タケなどが登場した、となっている。ところで、『茶話指月集』は、藤村庸軒という人物が利休の孫・千宗旦から聞いた利休の話を書き綴り、それを久須見疎安が編集したとされている。利休が亡くなったとき、宗旦はまだ十三歳三カ月であった。しかも、宗旦は利休の亡くなる直前まで大徳寺に渇食として預けられていた。となると、『茶話指月集』に記された植栽樹種をそのまま信じて良いのであろうか、という疑問が残る。
 
利休の手水鉢
  利休の路地(茶庭)について、調べたいと思っても、具体的な物証がないのできわめて難しい。もしあるとすれば、路地を構成する手水鉢や燈籠くらいだろうか。そこで、わずかな手がかりとして、利休の茶庭に関連する手水鉢について探ってみた。探ると言っても、文献を主とするのではなく、現存する利休が関与したとされる手水鉢を対象に見ていきたい。
  まず、金沢市尾山神社には、利休が京都・不審庵で使ったとされる手水鉢があるとの記事(2008年10月15日  読売新聞より)がある。それは、「梟の手水鉢」と呼ばれる花崗岩の手水鉢で、高さ56㎝、幅54㎝、奥行き49・5㎝。利休の子孫が著した茶書に、加賀藩三代藩主・前田利常に譲り渡したとあることから、そのように判断したようだ。しかし、前田利常が生まれたのは、利休が亡くなってから三年後である。さらに、「梟の手水鉢」と呼ばれる、四隅にはインドの霊鳥ガルラが、四面には如来像が彫られている文様の手水鉢を、利休が路地に配置したりしたであろうか。というのも、利休の目指す、わび茶と「梟の手水鉢」はどうにも相いれないものがあるからだ。
  利休の手水鉢については、他にも寄進寄贈したとされる手水鉢がいくつかある。それらは路地に置いたとは限らないので、ここでは触れないでおく。
向泉寺伝来の袈裟形手水鉢
イメージ 1  次に、堺市にある南宋寺の庭に、利休遺愛の「向泉寺伝来の袈裟形手水鉢」と伝えられる手水鉢がある。「利休遺愛」については、真偽の程は定かではないが、利休の時代にはこのような形の手水鉢が使われていたと考えてよいだろう。と言うのは、利休を敬愛していた細川三斎もまた、同じく袈裟形の手水鉢を残しているからである。そこで、手水鉢の配置について検討してみよう。
  利休は、この袈裟形手水鉢をどのように配置したのだろう。手水鉢の配置について具体的に述べたものとして、南坊宗啓の『露地聴書』がある。『露地聴書』については『南方録』と同様、史料として信頼性が問われるが、他にこれほど利休の手水鉢について詳細に示したものはないので、さしあたり参考にまで紹介しよう。「十六  前石と鉢との間寸法、大方弐尺五寸の内外なり、先、大抵は前石の中より鉢の前まで弐尺五寸、又は鉢の中より前石の前迄弐尺五寸と云ふ、兎角是も前石に居り、手水の遣能程が能なり、椽より遣ひ候友余り近すぎ候へば柄杓つかへあしく、又余り遠すぎれば蓋杯取難く、兎角蓋もとり能、柄杓もつかえぬが能也。」(編者・上原敬二  鹿島書店)とある。
  南宋寺にある手水鉢は、『露地聴書』の内容とは異なり、前石に接近している。現在置かれている手水鉢の配置は、利休が使っていた当時と同じではないだろう。と言って、『露地聴書』のような配置をしたとは考えにくい。では、いつ頃から現在のような配置になったのであろうか。
  丈のある手水鉢の配置については、『貞要集(古典籍データーベース・早稲田大学より)』(1710年)に「手水鉢の事」として、「地上より二尺四五寸迄、前石は景よく大きな石を据え、前石の上面より手水鉢の上端迄は一尺より一尺五六寸迄、又前石の前面より手水鉢水溜の口迄は一尺八寸より一尺六七寸迄」と説明されている。この手水鉢は、高さが75㎝程度とかなり丈があり、前石からも54㎝程度の高さがあることから、つくばって使用するイメージではないと思う。                                                                               静想無碍体
イメージ 2 「蹲踞」が茶書ではなく、作庭書に登場するのは、おそらく『築山庭造伝』(1735年)が最初ではないか。『築山庭造伝  前編  解説』(編者・上原敬二  鹿島書店)、『築山庭造伝  前編・下』の「鉢請樹の事」に「蹲踞手水」という記述がある。もっとも、ただ言葉でのみが書かれているだけで、説明は全くない。その記述とは別に、『築山庭造伝  前編・中』では、茶人の庭が二景ある。その中には、手水鉢が描かれている。一つ目の手水鉢は、「涵養幽情体」と称される茶人の庭に描かれたものである。この庭は、北野松林寺の庭で金森宗和作とされている。もう一つは、「静想無碍体」とされる庭の手水鉢の図である。この二つの例は、絵の描き方にもよるので断定はできないが、手水鉢は丈があるもので、つくばうという形で使うものではないように思える。                                                                涵養幽情体
イメージ 3  次に「蹲踞」についは、『夢窓流治庭』(1799年)にも記されている。
「一、蹲踞手水鉢は水袋と前石の間一尺八寸より二尺位明け置よし、尤も石の大小によるべし、前石高さ土より三寸位。
一、手水鉢は前石より六寸計高く居てよし、蹲踞手水鉢は三ツ石也、椽先手水鉢は三石に限らず。
一、片口石は前石より一寸五分高く居へてよし、左右の石の見合也。
一、手燭石は前石より三寸程高く居へてよし、但し左右恰好見合也。」(造園学雑誌 2(1), A1-A13より)
  『夢窓流治庭』で示される手水鉢は、前石との高低差が六寸(18㎝)と云うから、つくばって使用するものだとが想像できる。
細川三斎の手水鉢
イメージ 4  また、袈裟形手水鉢をつくばう形で使用した例としては、大徳寺高徳院に細川三斎の手水鉢がある。この手水鉢は、「袈裟形のおりつくばい  この浄水盤は、加藤清正公が朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰り、細川三斎公に贈られしものなり。地面低くおさめられているので、おり蹲踞と呼ばれている。三斎は、燈籠と共に、愛用し熊本、江戸間の参勤交代にも持ち歩き、八十才の時、当院におさめられしものなり。」と表札にある。ただ、袈裟形手水鉢をおり蹲踞とした時期については定かではない。
  もし、細川三斎が生前から、地面を深く掘って袈裟形手水鉢を据えていれば、利休も同じように使用していた可能性はあるだろう。しかし、作為を好まない利休が袈裟形手水鉢をわざわざ地中に埋めるというようなことをするかという疑問はやはり残る。
  そして、「利休の頃まで蹲踞はなく」(『茶の湯の歴史』神津朝夫)という指摘があり、手水鉢からのアプローチは、ここまでしか進められなかった。