江戸の盆栽 1

江戸の盆栽    1
 
「ボンサイ」と「はちうゑ」
  江戸のガーデニングとして、盆栽にふれないわけにはいかないだろう。江戸時代には、どのような盆栽が楽しまれたかと興味がそそられる。現代では、盆栽の種類を「松柏」「葉もの(雑木)」「花もの」「実もの」の4種類に分けているようだ。もっと、それだけでは盆栽の種類を覆いきれない。ミニ盆栽苔玉盆栽、皐月盆栽、万年青、山野草、さらに寄植盆栽、盆景、石付け盆栽などもあるようで、盆栽の領域は広がっている。
イメージ 5  江戸時代の園芸書や絵などには、盆栽らしきものがいくつも認められる。たとえば、おもちゃ絵の絵師として第一人者の歌川芳藤(号よし藤)が描いた「草花植木づくし」には、様々な盆栽の絵がある。図は、その一部を示したものである。嘉永年間(1848~1854年)には、近年流行しているといわれるミニ盆栽や草花盆栽など、江戸時代にも行われており、なにも特別な盆栽ではないと感じられるほどである。それらを見ると、現代の盆栽はかなり昔から行われており、綿々と現代まで続いていると考えがちである。そして、江戸の盆栽は、さぞかし盛んであっただろうと思える。
イメージ 1 ところで、江戸時代の園芸書(『金生樹譜』)を繙くと、右図のように「盆栽」という文字が数多く記されている。だが、良く見ると「盆栽」の横には「ハちうゑ(はちうゑ)」と振り仮名がついている。「ぼんさい」とは書かれていない。これはどういうことなのであろうか。振り仮名は「ハちうゑ」であっても、まさか「ぼんさい」と言っていたとは考えにくい。江戸時代には、「盆栽」は「はちうゑ」と呼んでいたと考えるのが順当な推測ではなかろうか。
イメージ 2  個人的には、実体が同じものなら、「はちうゑ」たろうが「ぼんさい」であろうが、どちらでも良いという気もする。しかし、人によっては、その辺をキチンと整理したいと思う人がいることも確かだ。実際、江戸時代には「ぼんさい」はなかったと考える人がいて、一方、とんでもない、「ぼんさい」は江戸時代から綿々と続くものだとして、いわゆる「盆栽論争」が起きる。さらに、「盆栽(ぼんさい)」の起源は、日本ではないという起源にも異論がある。
イメージ 3  盆栽論争が生じる原因は、「盆栽」とはどのようなものか、そのイメージが異なるためではなかろうか。江戸時代の「盆栽」は、盆(はち)に植えられていたものであれば、何でも良かったと思われる。たとえば、『草木錦葉集』には大根草(ダイコン)が描かれており、野菜も対象としていた。もちろん、現代でも、野菜を盆栽にする人はいるかもしれないので、何ともいえないところであるが。やはり、「盆栽とは何か」が問われることとなる。
 近年、静かな盆栽のブームが起きているとか。広い庭がなくても、テラスやベランダ、室内でも出来るという点からすると、江戸の町と同じとも言える。むしろ、昔の方が盆栽を楽しむ場所を探し求めていたかもしれない。真偽の程はよくわからないが、三代将軍家光が、箱枕の引き出しに松の盆栽を入れて寝たという話は、江戸時代ならではの微笑ましい逸話である。現代にも、そんな盆栽好きを、求めたいものである。
 
盆栽とは
  岩佐亮二は、『考証盆栽史大網』で「景観に接して感ずる美的な心象を生育可能な状態で器物の中に表現するという創作活動、すなわち芸術性の有無こそ、「盆栽」と「鉢植」との分岐点であるとすることができる。」と述べている。続いて、「ところで、このような概念の分化は、後述するように明治20年頃(1890頃)社会の一部に発展し、先達の並々ならぬ啓発運動により、約40年間を要して、大正末年頃(1930頃)に至り、ようやく社会通念に昇華した。したがって、最も厳密狭義に「盆栽」を定義づければ、その源流は明治20年頃で行き止まる。」としている。そこで、現在話題となっている「ミニ盆栽苔玉盆栽、皐月盆栽、万年青、山野草、寄植盆栽など」について伺ってみたが、ただ苦笑されるだけであった。
イメージ 4  江戸時代に人気があった盆栽の姿が、なぜ明治時代になって変わったのか。たぶん、明治初期くらいまでは、江戸の盆栽(はちうえ)として人気があった、『草木奇品家雅見』に数多く見られるような盆栽は残っていただろう。しかし、斑入りの葉を珍重する盆栽は、瞬く間に消えたようだ。それは、江戸の盆栽文化を支えていた武士たちが江戸から出て行ったためであろう。盆栽は生き物だから、管理されなければ姿は崩れ、いずれ枯れることになる。
 奇品盆栽は、江戸の庭園の大半が明治期になって、荒廃したのとほぼ同じ運命をたどった。多くの盆栽が置かれていた旗本屋敷は、大半が上地され盆栽の置き場は失われた。また、江戸に残った旗本も、経済的に困窮し、盆栽の栽培から手を引かざるを得なかった。
  明治になり、武家屋敷は取り壊され、庭園は桑畑や茶畑にされた。庭園が廃棄されたことによって、江戸の植木屋の仕事は激減した。「江戸の三代植木師」として知られ、最も羽振りのよかった三河島の伊藤七郎兵衛でさえも没落する有様であったから、他は押して知るべし、である。そのような逆風の中、植木屋は生き残るために、庶民向けの盆栽販売に力を注いでいった。というのも、幕末・維新の江戸庶民は、零落する武士たちとは違い、時代の変化に翻弄されることなく江戸時代からの園芸趣味を持ち続けていられたからだ。
  その様子は、『武江年表(斎藤月岑編)』や『郵便報知新聞』を見ると、
明治3年2月武江年表「上野、花見群衆多けれど俗人のみ」
明治3年9月武江年表「巣鴨菊の造り物、十三箇所程できる」
明治4年3月武江年表「染井植木屋にて、躑躅花壇を源氏五拾四帖になぞらえて見する」
明治4年9月武江年表「染井巣鴨団子坂、菊の造り物あり」
明治4年9月武江年表「招魂社の南御楽園取払い、染井村栽木屋の庭とし、菊花壇盆種の草木等見せる」
明治4年9月武江年表「麻布広尾笑花軒、菊花の造物を見せる」
明治5年3月武江年表「浅草伝法院にて博覧会。植物などの展示即売」   
明治5年5月武江年表「牛島・佐竹候下屋敷大鷲明神、庭中花木泉水・奇石等多し」 
明治5年10月武江年表「下谷元御成道五軒町・酒井候跡、梅園開く」
明治6年2月武江年表「浜町一丁目に梅園を開く」  
明治6年4月武江年表「池田候邸跡の貨食舗、中島に樹木植える」
明治6年7月武江年表「松平下総守邸跡に伊勢大神宮を建立、山池を築き・四季の花木を植える」
明治6年9月武江年表「芝山内茶店の庭に菊の造物出来る」    
明治7年2月郵便報知「筋違見付跡、万世橋辺に梅桜の花木二百本余植える」
明治7年3月郵便報知「廿日より二十二日まで巣鴨一丁目於新梅荘盆栽の大会」
明治7年4月郵便報知「吉原仲の町に、恒例のサクラが植えられる」
明治7年5月郵便報知「亀戸天満宮境内、藤花が盛り」
明治7年5月郵便報知「目黒不動近傍の茶亭内田の牡丹園昨今花盛り」
明治7年5月郵便報知「芝増上寺境内、花園に花卉を布置」
明治7年5月郵便報知「北里仲町花王樹を植える。例年より数を増し満開一層の芸郁」
明治7年7月郵便報知「洋種長春のバラの流行 日を追い増」
明治7年8月郵便報知「巣鴨花戸長太郎が盆栽せる舶来朱藤、殷紅錯落として碎珊瑚を織るが如し」
明治7年10月郵便報知「浅草観音奥山なる花園に於いて盆栽陳列」
明治7年11月郵便報知「染井巣鴨団子坂の辺植木屋例の造り菊、錦繍を綴り」
明治7年11月郵便報知「両国中村楼の盆栽会」
 このように庶民の園芸熱は、年を追って高まり、徐々に江戸時代を凌ぐような勢いで広まっていった。盆栽も形を変えながら、庶民の楽しみの一つとして存続していたことと推測される。