茶庭 9 千利休その5

茶庭 9 千利休その5
利休と花
  利休と花にまつわる話は、「朝顔の説話」などいくつもある。それらの話は、利休の巧妙譚を示すもので作為的な話が多い。また、それらは、茶道の心得を教授するための話としても、茶書などに記されている。ただし、茶書は、話の真偽に重きを置くものではなく、茶の湯の精神を解説するのに用いている。茶道を実践するために書かれたものであるから、利休なら花をそのように取り扱っただろうと、読む人がイメージしやすい話であればよい、ということだろう。
  利休が路地にどのような花を植えたかについては史料はないものの、挿花については茶書に記されている。では、茶会で使った挿花はどこから入手したものだろう。最も近い場所として、まず、路地が考えられる。事実、宗湛日記の「十月廿一日晝  大坂御城ニテ」(天正15年10月21日)には、大坂城の山里丸で催された茶会で、秀吉は神谷宗湛に花を所望したが、宗湛がこれに応じられなかったので、秀吉が「小車(オグルマ)」を活けたとある。この時のオグルマは路地に咲いていたものと、考えてよいだろう。
  となると、路地には花木や草花が生育していたと、推測しても良さそうだ。植栽されなかったとしても、野辺の花が路地にあったとしても別に不思議ではない。真偽はよくわからないが、『茶之湯六宗匠伝記』には、古田織部タンポポを植えたという逸話も残っている。利休の時代には、路地における花もの植栽についてはあまり問題にしていなかったのではなかろうか。それが、小堀遠州の時代に、路地への植栽が注目されるようになって、花の植栽が問われるようになったのだろう。
  『茶窓閑話』(享和四年1804年刊)に「小堀遠江守政一其座敷の花を賞鑑させんとて。路次に花ある木を栽られざりしより。今はなべてうゑぬ事となりし」とある。また『茶話指月集』(元禄十四年1701年刊)に「遠州公の此れより、露地にはなをうへられす、是も茶湯の花を一段賞翫の義なり」とある。これらの文から、小堀遠州の時代以降、路地に花を植えないようになった、と読むこともできる。と言うことは、逆に利休の時代には路地に花を植えることについて否定されていなかった、ということだろう。
 
茶花
  利休の茶花についてまとめられた本として、『利休の茶花』(湯川制)がある。『南方録』などを資料に考察したもので、なかなか興味深い内容である。利休の挿花については、資料が少ないことから『南方録』を中心に考察しているのであるが、気になる点がいくつかある。
  まず、「挿花」の初めとして、天文六年の茶会(当時、利休が十六才であった)を取り上げている。しかし、この記録は、利休の茶会記録として疑問(『千利休の「わび」とはなにか』神津朝夫)が持たれている。
  また、天正八年十二月九日の茶の湯では、鶴の嘴花入れに白梅が使われた(宗及の茶会の記録)が、なぜかこの茶会については無視している。永禄九年の茶会についても、有名な「ナラ柴カタツキ」が記されているが、利休はこれを所持していないはずなのに、使用したと記載されている。著者(湯川制)も『南方録』の茶の湯を開催した日時や客について、いろいろと推測し、疑問を持っていたことは確かなようだ。が、にもかかわらず、茶会が行われた年の不明な挿花まで記録の対象にしていることは、やはり気にかかる。
イメージ 1 この本で取り上げた「花材の記録は五十九回・・・『梅』の十九回を筆頭に、『菊』の十回、『白玉つばき』の六回が多い方になる。『柳』も五回使われた。また、『水仙』と『牡丹』とは各二回である。
卯の花』『朝顔』『白蓮』『かきつばた』の各二回と、『薄色つばき』『白桃』『藤』『あじさい』『夕顔』『木瓜』『しの花』(山竹)『やくも花』(益母草)『小車』(瀬覆花)が一回ずつ見られる。」
  これらの花については、『南方録』をそのまま紹介するのではなく、利休の嫌いな花など、個人的な好みも加味して考察している。それでも、『利休の茶花』の内容は、『南方録』『滅後』を著した立花実山の枠の中での考察となっている。
  次に、利休の茶会記から、岡田孝男(『椿-花と文化-』より)が当時の茶花について考察したものを示してみたい。天文六年(1527)から天正十八年(1590)までの約45回のうち、何の花か、花の記入がないものが29回、花を生けなかったものが4回、「花なし」が1回、これに「花」とあるだけで、名前が不明な回を除くと、花の名の記入があったのは10回である。具体的には「梅五、水仙二、柳一、シノ花とヤクモノ花一回、小車一回」である。この後利休が亡くなるまで天正十九年(1591)の茶会は、利休百回記から93回もあるが、そのうち花の記載があるのは9回のみ。もっとも、「花」とあるだけで名前のないものも3回あり、「梅四、菊二」と記している。岡田は、『南方録』の「年が不詳な」ものは「採らぬこととする」としている。その上で、茶会記から、「利休自身の催した茶会に生けた花は梅が多く菊、水仙がこれにつぎ」との傾向があると書いている。類似の資料から調べイメージ 3たからか、両者の見解はよく似ている。
メハジキ(cibaさん提供)
イメージ 2  神津朝夫は、『千利休の「わび」とはなにか』の中に、利休茶会の記録58回を示している。その中から疑問のある茶会を除くと、梅が2回、白梅が2回、柳、薄、益母花、尾車草が1回登場する。サンプル数が少ないという難点はあるものの、比較的ウメが多いことがわかる。その他については1回使われただけだから、それだけで利休の好みの花とは言えないだろう。なお、天正十五年の茶会(旧暦の6月15日)の薄は「シノ花」のことで、「シノ」ということで「篠」からメダケ(開花5月)などとする見方もあるが、おそらくススキ(開花8~9月)と思われる。益母花は「ヤクモノ花」で、メハジキ(開花7~9月)であろう。また、この二つの花は、組み合わせて生けられたことから見て、相性の良いススキとメハジキの可能性が高い。また、尾車草は「ヲ車」で、オグルマであろう。
  利休が活けたと言われている花だから、利休の好みの花だと断じるのは早計ではないか。茶書には、利休が好んだと思われる花と同時に、嫌った花も列挙されている。もっとも、利休は茶花に何を使うかということにはさほどこだわらず、その場に応じて臨機応変に対応すべきと考えていた節がある。前記の茶会で1回しか登場しなかった花を見ると、まさに、花を通して「場に応じた花を活けよ」と、後人に示唆しているようだ。
  ちなみに、岡田は、「園芸のカタログを見ると、利休翁七選花として、ナツツバキ、ヤマボウシムシカリ、オオヤマレンゲ、ハクウンボク、ヤマチャガラ、マンサクをあげ宣伝売出しをやっているが、前記、利休時代の茶花の記録にはこれらの花は出てこない。」と「茶の世界」に対して批判的なコメントを加えている。