福寿草

イメージ 1  新春の花といえば福寿草。特に江戸時代は、フクジュソウの人気が高かった。中国では、正月には華やかな牡丹の盆栽(はちうえ)を飾った。それ比べると、新春にふさわしい控えめな愛らしさを持つ花である。節分の頃に咲く花としては、セツブンソウ、ユキワリイチゲなど美しい花は、いくつかある。その中から選ばれたフクジュソウは、名前からしても「福」と「寿」の二字が入っている何ともめでたい花である。
  『牧野新植物図鑑』には、「新年を祝う花として元日に用いるので、祝福してこの佳い名をつけたものである。」とあるが、フクジュソウという名は、江戸時代になって浸透したようである。フクジュソウは渡来植物ではなく、大昔から日本列島に生育した植物である。「フクジュソウ」という名の初見は、磯野直秀によれば『毛吹草』(1645年)としている。比較的身近な植物だから、もっと以前に名前が登場していてもおかしくないはずだが、書物に登場したのは案外新しいよう。                                                                                             金生樹譜より
イメージ 2  日本の園芸書として最も古い『花壇綱目』(1681年)には、「福寿草  ・花黄色  小輪也  正月初より花咲  元旦草とも  朔日草とも  福つく草とも俗に云」と記載されている。また、『花壇地錦抄』(1695年)に、「福寿草  初中  花金色、葩多く菊のごとし。葉こまかなる小草なり。花朝に開き、夕にねむり、その花又朝にひらきて、盛り久しき物なり。元日草共ともふくづく草ともいう。祝儀の花なり」とある。
  フクジュソウは、もともと近在の山野に咲く植物だから、古くから様々な呼び名があっただろう。方言でも、ツチマンサク、チヂマンチャク、マゴサグ、マンザクなど、色々に呼び慣らわされていたようだ。いずれも、まだ寒い冬の時期に待ちに待った春の訪れを告げる花として、このように呼ばれたのであろう。今の私たちよりも、強く春を待ち望んだと思われる江戸時代の人々。正月に咲く花はあまり多くないので、なおさら注目を集めたのだろう。日だまりに咲き、この花の温かな金色は、見ているだけで幸せになることから、福寿草という名が浸透したものと考えられる。正月を祝う花という意味から、また、元旦草、正月草、賀正草、賀正蘭、さらには歳旦草、献歳花など様々な別称を持っている。
イメージ 4  江戸時代、フクジュソウの栽培は、どうやら『花壇綱目』や『花壇地錦抄』が出された元禄年間(1688~1703年)頃から盛んになったのだろう。それ以降、正月を飾るめでたい花として広く浸透し、「福寿草」という呼び名も普及していった。『花壇地錦抄附録』には浅黄福寿草(二重大輪、うち黄)、八重福寿草が記され、園芸植物としての需要が多くなるにつれて、花の改良も進んだ。
  貝原益軒は『花譜』(1698年)と『大和本草』(1709年)に福寿草の名前を遺している。『花譜』には、「春の初花ひらく故に元日州と云ふ盆に植て新春席上清賞とす」とある。また『大和本草』には「福寿草  フクヅク草トモ元日草トモ云・・・白花アリ」とある。その後も、『和漢三才図会』(1713年)に「元日草  福寿草ハ洛東ノ山渓陰處ニコレ有  冬枯レ春生ズ」とあるように、福寿草についての記述があちこちに出てくるようになった。                                                                                     草花絵前集より
イメージ 5  享和年間(1801~04年)には、『珍花福寿草』というフクジュソウだけを集めた彩色図譜(手稿本)が描かれた(左図より4枚)。これには、十一代将軍家斉に献上された優花奇花、鳳凰・菊八重咲・ちちぶ紅・水野白・撫子咲・山吹咲・孔雀尾など十五品のフクジュソウが描かれている。それらはどれも、なんと言えない美しい色や形をしている。見る者をして虜にさせる。その後も、福寿草の人気はさらに続いたようで、『本草要正』(1812年)には紅花、白花、八重咲き、段咲き、大輪、細咲き、絞りなど、約百三十もの品種が記録されている。
イメージ 6  そして、福寿草は『金生樹譜』(1830年)という本に、「百両金(カラタチバナ)、万年青(オモト)、蘇鉄(シシソテツ)、松葉蘭
(マツバラン)、石斛(セッコク)」とともに金生樹(かねのなるき)と記された。これらの植物は、江戸時代の園芸ブームを背景に、法外な値段で売買されていたものである。ちなみに、福寿草の値段を現代の金額に換算してみよう。資料として、天明年間(1781~1788年)の『草木價概附』を参考にする。
イメージ 7  「野生の花物、桔梗など」の値段が二十四文とある。これは、現代の七百五十円程度と推測する(当時の蕎麦の値段を16文、現代のかけ蕎麦の値段を五百円とした)。この値段想定であれば、大きな相違はないものと思われる。そこで、「浅黄福寿草」の値段を探すと弐朱とある。この値段は、二万五千円と計算される(壱朱は二百五十文とされているが、『草木價概附』には、三百文の次に壱朱、その次に五百文、六百文、弐朱という順に並んでおり、弐朱を八百文相当とした)。次に「榊原福寿草」は壱分弐朱とある。今でいうと七万五千円に相当するものと推測できる。一鉢の福寿草の値段にしては、かなりの高額だと言って良いだろう。もっとも、フクジュソウの新種を誕生させるには、種から育てて、花を咲かせるまでに五年以上もかかり、繁殖は容易でない。したがって、要した手間や時間を考えれば、それほど高い値段とはいえないかもしれない。
イメージ 8  フクジュソウが江戸時代の人々に好まれた理由の一つとしては、花の表情が非常に豊だったことが考えられる。花色が多彩なだけではなく、咲き方にも微妙な変化を見せてくれる。ちょっとした環境の変化に敏感で、日中でも日が翳ると1~2分で花を閉じ、再び日が当たると、いつの間にかまた開いている。このような現象は、気温の低い時期に咲くことから、花びらを開閉して花の中の温度を下げないようにしているのであろう(花の中は外気より5~10℃高く、一足早い春になっている)。光や温度変化に対応することで、フクジュソウはよりデリケートな花として愛されたのであろう。
イメージ 9 明治時代になって、新暦に変わった後も鉢植えにして正月の床飾りとした習慣は残り、現代に続いている。今は江戸時代に比べて一カ月も早く花を咲かせなければならなくなったが、栽培技術は完成されており、年末には鉢植えがたくさん売られている。フクジュソウの花芽は晩秋にできるので、その後約1ヶ月(11~12月上旬)寒さにあわせ、室など暖かいところに置くことで新暦の正月頃に咲かせることが可能になった。
  イメージ 10ただ、暦が変えられた明治六年の元日(明治五年旧暦十二月三日)には、福寿草を飾ることができなかったものと思われる。翌年からは、福寿草は正月の花として室栽培によって用意されたが、江戸時代のような安価の鉢植ではなくなっただろう。また人々の趣向も明治以降、しだいに変化して、一部の愛好者は栽培を続けたものの、江戸時代のような幅広い人気は失われてしまった。さらに、昭和に入り、戦争が始まると、フクジュソウは根と茎が有毒で、食用にもならず、不要不急の植物とされた。それまでにもすでに、江戸時代からの貴重な品種が失われていたが、終戦直後には壊滅的といえるほどの状況であった。
                                                                                                                                                                                            風俗東之錦より
イメージ 3  では、戦後から半世紀を過ぎた現代ではどうだろう。人々のフクジュソウへの関心は、自然の中で鑑賞するほうが強くなった。インターネットで検索すると、「福寿草の名所」は、北は旭川から南は諸塚村まで43カ所あるらしい。それ以外にも、たとえば、千葉県の富里市など、全国にはまだまだ多くの「福寿草の群落や名所」があるものと思われる。鑑賞する季節も、必ずしも正月だけでなく、早春を彩る花々とともに人気が上がりつつある。
 その一方で、江戸時代の福寿草を再現しようとする愛好者も増えている。たとえば、「平成福寿草の会」は、江戸時代からの銘品が現在どのくらい残っているか検証している。大正期に、江戸末期からの伝承品種とされる50種をもとに鑑定した結果は、玉孔雀、三段咲、小菊、金紫、金世界、紅撫子、撫子、金采、昼夜牡丹、日月星、紫雲、福寿海の12品種もあるという事実も報告されている。絶滅した種も少なくないなかで、このような会や愛好者の増えることを心から願っている。