茶庭 11 古田織部その2

茶庭 11 古田織部その2
茶の湯隆盛に伴う路地の発展
 茶の湯が盛んになれば、当然、数寄屋(茶室)と路地の整備が増えてくる。十七世紀に入ると、路地が数多くつくられるとともに様々な形態の路地がつくられたものと思われる。多様な路地がつくられていたことについて、田中正大は「だいたい、二重路地でもこの鐘のことでもそうだが、織部が創案したと伝えられているものの中には、それ以前の無名の人が始めたものもあったと考えられる。当時は未だ型にはまったものでなく、多くの茶人たちはそれぞれに創意をしぼっていたのである。織部以前の無名の人たちが試みたものをうけつぎ、組織だて、理念をあたえたところに織部の意義があった。しかし、無名の人たちの小さな創意というのも無視されてはならない。」と『日本の庭園』で述べている。
  利休や織部が活躍していた時代には、路地の形態は、茶人にとって最重要な課題ではなかっただろう。茶室の置かれた環境に応じて、適宜に整備していたのではなかろうか。他所の路地を参考にして、飛石を据え直したり、灯籠や手水鉢を変えたりすることも少なからずあっただろう。特に、路地に松葉を敷いたり、砂を敷きつめたりする時には、不都合があれば石などは簡単に取りかえていただろう。
 利休の弟子のなかでもとりわけ、織部と細川三斎は、利休の最後を淀の渡で見送ったくらい、利休の茶の湯に傾倒していた。が、二人がつくった路地は、いわゆる利休好みといわれる路地とはかけ離れた、色彩豊かなものであったようだ。織部が派手な色彩と様式を好んだことは、彼が関与した茶器を見れば納得できる。しかし、利休の茶の湯を継承した三斎が、織部と同じような路地をつくっていたとは不思議である。したがって、利休は、路地の形態については、あまり言及していなかったと思われる。
  さらに、神津朝夫は「寺院参道に敷石はあったが飛石はなかった。ただし、飛石遺構の最古とされるのは秀吉が朝鮮侵略の基地とした肥前名護屋城(佐賀県鎮西町)のものである。秀吉の茶室があった山里からは一直線に続く飛石が見つかったが、とても歩きやすい実用的なものであった。赤土層のため滑りやすく、飛石が必要だったのだろう。それが露地より早い飛石の起源だった可能性があり、そうだとすれば、露地に飛石が置かれるようになったのは、利休没後のことになる。」(『茶の湯の歴史』)とまで述べている。
  飛石遺構の写真を見ると、まさに通路である。その景観から推測される路地とは、茶席へと進む何も巧まない道であったと感じられる。利休時代の路地は、飛石の意匠に凝ったり、周囲の景観などに手を加えるということをほとんど考えなかったのではなかろうか。そして、そのためか、宗易(千利休)流の茶の湯について語られている『茶譜』(著者も作成年も不明なので、信頼性に不安もあるが)は、利休の路地についてよりも、織部織部流)の路地の説明に対して紙面の大半を割いている。これは、利休の路地について語るものがなかったからではないか。利休への回帰が鮮明に打ち出されている『茶譜』、路地について、利休を継ぐ正統な後継者として織部の路地を認めたためであろう。織部は、利休の精神を引き継ぎ、型に捕らわれず、その場にふさわしいと思う路地を目指したと思われる。
 織部の没後(11年後)に出された『草人木』(作者不詳が気になる)には、「内路地」「二重路地」「外路地」という語が記されている。このことから、織部が活躍していた当時(主に慶長年間)に路地が発展し、二重路地などの言葉が使われるようになったと見て良いだろう。『草人木』の33年後に出された『古田織部正殿聞書』は、慶長年間に発展した路地について詳細に記している。ここで気になるのは、路地の発展が織部の成果のように書かれていることである。もっともこの書が出された時期には、異論があっても、それについて言及できる小堀遠州は亡くなっていた。
 
茶書から見る織部の路地
  では、織部は実際どのくらい路地の発展に寄与していたのであろうか。『茶道四祖伝書』(「古織公伝書」)には、「路次表ニクゞリナク、是ニ腰掛を織部(殿)メサルゝニ、其以後、慶長八九ノ比二重路地ニ成候。織部殿シソメ給ふ。」とある。また、『松屋茶湯秘抄』(『わび茶と路地の変遷に関する史的考察-その1』の文中より)にも「慶長八九年二重路地ニ織部殿給初ナリ」との記述がある。しかし、本当に織部は、二重路地を創出したのだろうか。もしそうだとしたら、このことを織部から聞き、伝えることのできる人物は、小堀遠州が最も有力であろう。では、遠州織部にどのようなことを聞いたのだろうか。
  『宗甫公古織へ御尋書』(『慶長御尋書』)から示すと、遠州(作介)が織部に「茶の湯」について最初に聞いたのは、「慶長八年(1603)五月三日朝、古田織部を訪ぬ、」の時である。以後三十余回、遠州二十五才から三十四才にわたる10年で、その主なものを示すと、
慶長九年(1604)五月十三日、遠州織部に茶湯の心得を聞く
慶長十年(1605)五月二十七日、織部遠州を訪ねる
慶長十年(1605)六月十八日、遠州織部を訪ねる
慶長十年(1605)九月三日、遠州織部を訪ねる
慶長十一年(1606)九月十四日、織部遠州を訪ね雑談す
慶長十一年(1606)九月二十一日、伏見の織部
慶長十二年(1607)一月十一日、織部を訪ねる
慶長十二年(1607)一月十二日、猪子内匠頭の茶会、織部に対し茶の秘事を尋ねる
慶長十二年(1607)二月十二日、織部に茶道具置合の話を聞く
慶長十二年(1607)五月十四日、織部へ心得を尋ねる
慶長十二年(1607)五月十九日、織部へ数寄に参候
慶長十三年(1608)三月二十七日、織部に質問する
慶長十六年(1611)四月九日、遠州織部に茶事を尋ねる
慶長十七年(1612)正月十二日、織部、堺入津の時
 以上の対話の中で、路地がどの程度取り上げられていたか(『古田織部茶書一』「宗甫公古織へ御尋書」より)。御尋書には、二重路地についてはもちろん、敷松葉についてさえ記されていない。記されているのは、慶長十二年五月十九日、「一、路地手水はち、腰かけのせつちん、かやせつちん同シ方ニ三色ニても所之けい次第不苦候」。十四年正月上洛之時、路地の景色について「夕月夜海すこしある木の間かな」という句を添え、路地景観の取り扱いと、「前石のふミ所」の広さ(おおきなるものとちいささき)に触れた程度である。なお、これに対し「古田織部正殿聞書」には、延々(『古田織部茶書一』78~103頁)と路地に関連する記述が残されている。
 「宗甫公古織へ御尋書」と「古田織部正殿聞書」とでは、明らかに性質が異なり、市野千鶴子が指摘するように「古田織部正殿聞書」は「織部信奉者によって集大成されたもの」である。「古田織部正殿聞書」の路地については、織部が実際に語ったのではなく、織部に関わりのあった路地を見て書き留めたものではないかと思われる。
  古田織部は、慶長年間に最も活躍した茶人であるから、二重路地や敷松葉などについて関わりが深かったことは確かであろう。織部茶の湯において画期的な業績を残したことは、茶碗などからも推測できるが、路地に関しても同様のことが言えるだろうか。織部の庭への関心は遠州に比べると余り高くはなく、したがって、積極的に庭づくりをしたとは思えない。織部作と伝えられる庭は、堺の南宗寺にある庭が唯一である。路地にしても、織部好みとされる燕庵(藪内流宗家の茶席)と本圀寺(図面による)の路地が、織部の影響を受けていると言われている程度である。
 
ファッション・コーディネーター
  矢部良明は『古田織部桃山文化を演出する』の中で、「ファッション・クリエーターとしてではなく、ファッション・コーディネーターとしての役割が織部の主な仕事ではなかったか。」と述べている。路地について言えば、正にそのとおりであったと思われる。人から相談されたり、質問を受ければ、織部は、最新の情報を提供したに違いない。
  たとえば、秀忠が江戸城内山里の数寄屋で、織部から茶湯の指南を受けたことがあった(慶長十五年か)。用意を整えるため御女中方の尋ねてきた項目に対して、織部自身が答えたものとして『台徳院様御尋付古田織部正請』(九月二十七日)がある。その中で路地に関しては、
  「一  御路地は、御口切の節より敷松葉、地の見へざる様に厚く敷つめ候事、如何に思召御迚乍然まつの下蔭などは、外より厚くてもくるしかるましく被思召候由至極仕候、成ほと数寄に叶候思召と奉感心侯。」
 「一 藪の下は、竹の落葉其儘可差置哉と仰出され、感心不少落涙仕候。
 「一 御路次の木々枝打過思召に、不叶条至極仕以来は、可申付旨奉畏候。」
 「一 御路次の石、不残結構過思召に不叶候条、明日拝見不宜石見合差置可申旨、感心不少奉存候。
」とある。
  織部は、「敷松葉」について指示している。もちろん、この時が敷松葉をした最初ではない。この時期・状況において、最も適した敷松葉の形を選択し提案しているのだ。人に問われれば、時代の要請に十分応える的確な答を出してはいるものの、オピニオンリーダーとして自ら先頭を切って新たな路地のトレンドを創り出そうとするほどの積極性はなかったようだ。織部が茶匠として利休の次に位置したのは、茶の湯におけるファッション性が卓越していたからである。『槐記』(1724~35年)によれば、「庭ニ敷松葉シタルコトハ、織部ヨリ始レリト云」とある。織部の時代になって敷松葉が盛んになり、路地の敷松葉に数多く係わったことは確かだろう。織部創始者ではないのに、そのように書かれたのは、彼の優れた感性で、その場その場に応じた絶妙な敷松葉を行ったことから、「織部ヨリ始レリ」となってしまったのではないかと思われる。