江戸の盆栽 8 鉢植の用途

江戸の盆栽 8  鉢植の用途
鉢植の贈答
  江戸時代の盆栽を知る上で、鉢植がどのように使われていたか、その用途に注目してみたい。鉢植は、植物の栽培や鑑賞するためであることはいうまでもないが、贈答品として重要な役割を担っていた。家康は、ハイビスカスとマツリカを島津家久から贈られているが、切り花が献じられたとは考えにくいので、鉢植であることはまず間違いないだろう。珍しい植物や貴重な植物を贈答品として使う時は、鉢植を贈るのが江戸時代の常識であったらしい。
  現代では、植物を贈る場合は、花束など切り花が多くなっている。人にもらった植物は枯らすわけにはいかないと、後の管理を考えると切り花の方が贈られる側の負担が少ないからだ。また、もらった鉢物の数が多くなれば置く場所に困ることもある。特に、栽培の難しい植物は、贈られた方としては、ありがた迷惑になる場合さえもある。しかし、江戸時代には、貴品の植物はありがたく、時に名誉として大切に管理していた。
  そこで、鉢物の贈答が日常的に行われていた例を紹介したい。それは、柳沢吉保の孫・柳沢信鴻が記した『宴遊日記』に、克明に記されている。暮れから正月にかけて物のやりとりが多いことは、今も昔も変わらない。信鴻の場合は、正月の贈答品として鉢植は非常に目につく。さらに二月に入っても、たびたび鉢植をもらっている。その後途も切れることなく、十二月まで続く。『日記』を見ると、一年を通じて鉢植の贈答が頻繁に行われ、その行為を楽しんでいる様子が伝わってくる。
 
贈答の記録
  安永二年(1773)の正月の日記を見ると、元日「藤田西都福寿草を進む」とある。どうやら信鴻は、藤田西都という人物に福寿草の鉢をあげたようだ。たぶん、そのお返しだろう、十二日に「西都より鉢うへ梅三ツ貰ふ(西王母飛鳥川・八重春軸)」とある。
  四日には「姉君より御文、海石榴鉢うへ二ツ・白梅一ツを賜ふ」と、ツバキを二鉢、ウメの鉢植を一つ頂いている。鉢植のやりとりはこの後も続き、九日「八重児紅梅を進む」、十日「梅鉢うへ五ツ貰(難波紅・桜かひ・春軸・児紅)」。十二日にまた、上記に加えて「鉢殖節分梅を貰ふ」とある。その後、しばらく鉢植は贈られていないが、十九日に「香りふかき白梅の穂を賜ふ」、二十日に「大垂小垂梅の穂来」と、蕾や花の付いたウメの枝をもらっている。
  次いで、廿二日「接木梅鉢うへ十五株来る」、廿四日「接木梅十二種来」、廿五日には、「白梅接穂」「鉢殖梅三株(陶朱公・俳梅・舞姫)海石榴四株(春宵・唐錦・関守・迦陵頻・岩根・松嶋)を貰ふ」とある。廿六日は「鉢うへ梅三ツ、目六を進む」「鉢置西書紅筆二鉢を進む」だけでなく、「鉢うへ梅(難波鶯宿接分・八重源氏)二株来る」と、人にあげたりもらったりしている。(この月に貰った回数を示すと、鉢植の可能性があるものも加えれば7~9回になる。)
  二月に入っても、三日「紅梅鉢うへ」、十一日「真紅梅鉢殖を貰ふ」、十二日「梅鉢うへ二ツ(児遊・□雪の雪)賜う」、廿四日「梅鉢うへ二ツ貰ふ(田子浦・ひよく)」とある。廿七日に「垂桜造花を貰ふ」とあるが、これはいわゆる造花ではなく、仕立てられたサクラの鉢物である可能性もある。(4~5回)
 三月は、二月より数多くの鉢植をもらっている。九日「つはき二鉢被下(繻子かさね・わひすけ)」、十日「西王母桃貰ふ」、十七日「桜・つはき・桃華、庭のよしにて貰ふ」、十八日「源平桃鉢うへを貰ふ」、十九日「梅鉢置三十本預る。つはき貰ふ」、廿三日「唐にしきつはき賜ふ」、廿四日「つはき鉢植貰ふ」、廿七日「桜草貰ふ」、廿九日「羅氈つはき、つかはす」、三十日「海石榴鉢置貰ふ(名寄)」と、ウメだけではなくツバキ、モモやサクラソウももらっている。(5~6回)
  閏三月は、三日「鉢殖貰ふ」、十一日「桃鉢うへを貰ふ」、十五日「藤鉢殖を貰ふ」、廿七日「楓接分鉢殖二つを給ふ」と、4回ももらっている。(4回)
  四月には、十一日「楓鉢うへ四ツ貰ふ(浦苫や・初楓・唐棧錦・猩々)」、廿五日「楓接分鉢うへ貰ふ(青したれ・手向山)」に加えて、「釣り荵」「鎧通桃・糸薄鉢うへを貰ふ」とある。鉢植を貰ったのは、二日間であるが、その他に七日「夏菊花を貰ふ」、廿二日「花菖蒲十七品来」、廿四日「石竹夏気白長春貰ふ」と「夏菊貰ふ」がある。これらは切り花と思われるが、鉢植や根のついているものもあったかもしれない。(3~4回)
  五月になっても、八日「朝鮮石竹貰フ 」とあるので、おそらく鉢植をもらったのであろう。九日「鉢殖貰ふ」、二十日「水竹鉢置を貰ふ」、廿四日「いさ葉万年青・せんりやう鉢うへ貰ふ」、廿五日「鉢うへ四ツ来」。廿七日「千染楓貰ふ」、廿九日「定家葛・いさ葉玉つはき・いさ葉鉄仙鉢置貰ふ」と、計6回ももらっている。(6~7回)
 六月も、いろいろな植物をもらっている。三日「蘭花貰ふ」「菊析枝貰ふ」、六日「女郎花・桔梗貰ふ」と、これには切り花も含まれているかもしれない。七日「蘭来」「華柘榴を貰ふ」、八日「茶蘭鉢殖を貰ふ」「柾いさ葉貰ふ」、十九日「女郎花・桔梗鉢うへ貰ふ」とある。廿三日「石菖一葉貰ふ」、廿五日「大南天貰ひ」は、鉢植とは書かれていないがたぶんそうだろう。なお、廿五日には「蕣鉢うへを進む」と、ムクゲの鉢を人に贈っている。(2~4回)
  七月は、五日「鉢うへ四(いさ葉松・寄生松・いさは山椒)貰ふ」。十日「鉢うへ目ろくにて貰ふ」とある。目録からもらうとは、選んだということだろうか。(2回)
 八月は、廿六日「鉢うへ貰ふ」だけである。なお、二日「紫蘓の穟貰ふ」とあるが、これは紫シソの穂(葉の束)をもらったのであろうか。(1回)
 九月は、十五日「菊花を貰ふ」。二十一日「菊花貰ふ」。廿三日「山茶花貰ふ」。廿四日「菊花貰ふ。菊鉢植貰ふ」とあり、この月は、鉢植をもらったの珍しくこの日だけらしい。(1回)
  十月は、五日「南天鉢うへ貰ふ」とあるが、朔日「菊華二十許持参」、十八日「水仙を貰ふ」、二十六日「柊二株・珊瑚珠一株・橘一株貰ふ」と、植物をいろいろもらっている。(1回)
  十一月は、鉢植をもらっていない。それでも廿二日「水仙貰ふ」とあるから、スイセンの花をもらったと思われる。  十二月になると次の三回ある。三日「紅梅鉢うへ貰ふ」。十六日「鉢置寒紅梅貰」。十七日「寒紅梅鉢うへ貰ふ」。(3回)
  以上、安永二年(1773)に信鴻が貰った回数は、40日(可能性を含めると45)ある。鉢数にするとなんと70鉢以上。いかに多くの鉢植をもらっていたか、現代ではちょっと考えられないくらいである。
 
鉢植の入手
  信鴻は、鉢植をもらうだけであったかといえば、そのようなことはなく、もちろん自分で買い求めてもいる。具体的には、一月廿九日「海石榴六鉢を買ふ(豊後・青白・眉間尺・丹鳥・釜山海・乙女)」と、ツバキの鉢植を求めている。なお、十日「殖木買に行」とあるが、鉢植を購入したか否かはわからない。
  二月には4回、六日「海石榴三鉢(濡ふれ・両雨紅・胡蝶仇介)を求む」、十日「梅鉢うへ買う(八重児・紫絞十のむめ)」、二十四日「梅鉢植二を求む(花かみ・菊川)」、廿五日「梅鉢うへ六ツ求(豊後二・未開紅・和泉紅・式部紅・飛入紅)」と、ツバキとウメの鉢植を求めている。
 三月にも、八日「つはき三鉢を求む(羅氈・百官・星くるま)」。廿四日「つはき二鉢を求む(緋車・出羽大輪)」と2回ある。
  閏三月は、四日「楓鉢植二箇を求む(青葉・八しほ名月)。廿四日「楓鉢殖三ツを求む(野村・手前山・鴫立沢)」と、カエデを5鉢求めている。
  四月以降は、植木屋に立ち寄ることはあったが、鉢植を購入することは十二月までない。十二月十八日「福寿草を買ふ」とあり、これは鉢植と思われる。なお同日、「うす紅小梅」「大株の梅」も購入しているが、「うす紅小梅」は鉢植である可能性もあるが、「大株の梅」は違うだろう。廿九日「海石榴六鉢を買ふ(豊後・青白・眉間尺・丹鳥・釜山海・乙女)」と、6鉢も購入している。
  以上から、鉢植を購入したと思える回数は11日、鉢数は36鉢程。もらうだけでなく、積極的に求めていることがわかる。また当然のことながら、信鴻の好みの木を求めたのであろう。好きなツバキとウメ、カエデの3種類である。なかでもツバキが20鉢と御執心なのがわかる。なお、もらったツバキの鉢数は12鉢と、ウメの39鉢(購入は10鉢)に比べるとかなり少ない。
 
安永三年には
  翌年についても調べると、鉢植を貰った日数は28日、鉢数は45鉢程度。なお、鉢植とは記されていないが、セキチクセキショウなど鉢植と思われるものを含めれば33日、60鉢程度になる。鉢の種類は、カエデはまとめてもらったため最も多く14鉢、次いでウメが13鉢、ツバキ4鉢である。その他、キク類、ホウセンカ、ユリ、アオイ、チョウセンナデシコなどの草花やマンリョウ、フジ、柑橘類などがあり、前年よりも種類が増えている。
  購入した鉢植は、前年より8~10日と減少し、鉢数も20~23鉢程と少なくなっている。購入した鉢植の大半はツバキで15鉢、ウメはもらった数が多いためか3鉢である。                  
  なお、信鴻は鉢植をもらったり購入したりするだけでなく、交換も行っているようだ。安永三年一月廿二日の日記には、「酒中花・海石榴を買ふ○花屋権兵衛来、梅鉢殖十三・海石榴二ツ遣し他の樹を持参すへき由命す」とある。これは、懇意にしている花屋(植木屋)権兵衛であるから、酒中花というツバキを購入しその後、信鴻の所有しているウメ鉢殖13鉢とツバキ2鉢を持たせ、替わりに他の木の鉢植を持参するようにと注文したのではなかろうか。
  信鴻の鉢植の好みは、花ものが多く、マツが少ない。そのマツについても、樹形の見事なものより「いさ葉松」のような斑入りの鉢植が多い。斑入りについては他に、「いさ葉万年青」「いさ葉玉つはき」「いさ葉鉄仙」「いさは山椒」などがある。カエデは、樹形ではなく、もちろん葉の美しさであったと思われる。当時の鉢植は、酒中花のような美しい花を鑑賞するためのものであったのだろう。これは、彼だけに限ったことではなく、世間一般に見ても、やはり花への関心が高く、それに比べると樹形への関心はあまり高くなかったのではなかろうか。