江戸時代の椿 その1

江戸時代の椿  その1
  ツバキは、日本人の関心が高い植物である。それだけに、ツバキについて書かれたものは膨大にあり、実際の数がどのくらいあるかわからない。ツバキについて読み始めると、様々な話が錯綜してまるで泥沼に入り込んだような気がする。それでも、少し調べ始めると、ツバキの魅力に取り込まれてしまうことも確かである。今回はまだ道半ばではあるが、私なりにわかったことを紹介してみたい。江戸時代を中心に、順に(10年スパンで)追ってみることにした。
 
★1600年代(慶長年間)  江戸時代さきがけの花
イメージ 1  慶長八年(1603)二月二十一日、「白椿ホリテ将軍へ令進之了」と日記に記した人がいる。ここでの将軍とは、征夷大将軍の座に着いた徳川家康である。家康は、その九日前の二月十二日に、後陽成天皇から征夷大将軍の任命を受けている。ツバキを贈った人は、醍醐寺の座主である義演准后。准后は、豊臣秀吉が縄張りして、聚落第から藤戸石を運び入れたという三宝院庭園を、完成させた人である。
  秀吉の残した庭園を綿々と手直しした准后、おそらく、機を見ることに敏な人物であったのであろう。家康がツバキが好きなのを察して、秀吉の好みとは異なる白椿を贈ったのであろう。白椿の木は、もちろん准后の目の届くところで、醍醐寺境内、あるいは三宝院に植えられていたものかもしれない。彼は、庭づくりや植物に非常に関心が高く、亡くなる元和十年(1624)までの二十七年間も、三宝院庭園にまつわることを日記に記している。もっとも、庭いじりが好きであったのは確かだが、造庭の素養はあまり持ち合わせていなかったと見えて、庭のデザインは庭師にまかせていたようだ。彼の関心は、むしろ植木や草花の方にあったのではと感じられる。白椿の選択も准后の判断であろう。ツバキは当時でも、人々の間で関心の高い花ではあったが、近い内に大流行するだろうと読んで、江戸幕府を祝福する花に選んだのであろう。
 将軍家へのツバキの献上は以後も続き、家康もツバキには一方ならぬ関心を持っていたのだろう。『樹木図説』(上原敬二)には、「大阪市では天王寺一心寺境内の大久保椿が幹周2.7m、高9m、彦左衛門が家康に伴して一心寺に参した時小枝をさしたものの生育と伝へ、傍に『浪速江に二枝ともなき玉椿幾代栄えん君とこの寺』という自作の歌が石に刻まれてたつている。」とある。一心寺は、徳川家康大坂冬の陣大坂夏の陣において陣を張った場所である。また、大坂夏の陣の折り最前線で討ち死にした本多忠朝墓所もこの寺にある。そうなると、大久保椿がどのようなツバキか、是非とも見たい気持ちになった。
  そこで、大久保椿を尋ね、大阪環状線天王寺駅の北西にある一心寺を訪れた。見る人が驚くような奇抜な山門を抜け、境内をあちこち歩き探したが、残念なことにその痕跡すら見つけられなかった。どうやら、第二次大戦中の空襲で惜しいことになくなったらしい。大久保椿について、戦前に存在していたかを尋ねてみたが、寺の関係者さえもよくはわからない様子だった。そこで、大久保椿についてご存じの方がいれば、是非とも連絡いただければと願っている。
  大久保椿と呼ばれた「玉椿」が、どのようなツバキであったか、花の色や形を知りたいと思う。そこで「タマツバキ」を手がかりに調べてみると、あるにはあるが、このツバキはヒメツバキ属「ヒメツバキ」の別名とされている。ヒメツバキ(タマツバキ)は、小笠原諸島原産のツバキである。そのため、普通によく見られるツバキ属のツバキではない。そこで、「玉」の付く名前のツバキを園芸品種にまで広げてを探したところ、『花壇綱目』(水野元勝)に「太白玉、玉白」、『花壇地錦抄』(伊藤伊兵衛)に「玉青」などの名前があるった。これらのツバキの一種を植えたのではないのかと考えてみたが、どうも確信が得られない。そこで、「玉椿」はツバキの種類を示しているのではなく、ツバキの美称としての「玉」を、接頭語として付けたのではないかと、考えるに至った。とすれば、「大久保椿」は生長した樹高や幹周りから、ヤブツバキの一種ではなかろうか。
 
★1610年代(慶長年間) 慶長見聞集のツバキ
  慶長年間の様子を綴った『慶長見聞集』(三浦茂正)に、ツバキに関する記述がある。ツバキに関心の高かったことを記すものとして紹介する。なお、「勸學の文」(仁宗・北宋皇帝)に示される「若比二於草木一、草有二霊芝一、木有レ椿」の「椿」は日本のツバキではない(香椿・チャンチンだと)と思われる。
  「花賣盗人をとらへる事
  見しは今、庭に植おく木立色々ありといへども、椿にますはあらじ。其上勸學の文にも、草に霊芝、木に椿あり、とほめられたり。椿には異名多し。やつをの椿、濱椿、玉椿、はた山椿、八千とせ椿、春椿、かた山椿、八嶺椿、つらつら椿、いづれも古哥に見えたり。「河上のつらつら椿つらつらに見れどもあかぬ古勢のはるのは」とよめり。此つらつら椿のせつ様々に記せり。當世皆人の好み給ひけるは、白玉こそ面白けれと尋求めて植る。白玉椿やちよへて、と詠ぜり。
  されば當年の春しろき花の咲たる椿一本持來りて賣んといふ。本両替町に甚兵衛といふ人、おもひ設けし事なりと、此白玉椿を買とり、是こそ俗にいふ誠のほり出しものなりとて庭に植る。雨ふりければやがて花ぶさおつる、おしき物かなとて取あげ見れば、花もさかざる木に白玉をそく飯にて付たり。たばかりにあひぬることの無念さよとおもふ處へ、廿日程過、其花うり來て白玉をめすならば又持て参らんといふ。甚兵衛出合て後花うりぬす人よ、しやつのがすなとひしととらへ、よくいましめよ、縄をかけよ、御奉行所へ連れてゆかんとひしめきけり。
  隣の正兵衛といふ人、是を聞、いかに甚兵衛腹立はことはりなり。尤此者は盗人也。然れども花盗人なればきやしやなる人にあらずや。扨、此者が花賣盗人ならば、かふたる甚兵衛も花の香盗人よ。それいかにとなれば、如何なるか是きやしやの賊、と問ふ。答て日、掬水月在手、弄花香滿衣と古人もいへり。又、哥人は香をだにぬすめ春の山風と詠ぜり。花盗人やさしき人なりといへば、甚兵衛聞て、實に掬水すれば、月の威光をぬすみ、花を弄すれば花の香をぬすむ。いづれも月花のぞく也。此道理に負たりと、花盗人の縄を免されたり。」(『日本民衆生活史料集成  第八巻』より)
 
★1610年代(元和年間)  花癖将軍秀忠と椿
  元和二年(1616)四月十七日、徳川家康が亡くなった。二代将軍秀忠は、廣島椿の開花を「謹慎の餘り之を見ざりし」と『武家深秘録』にある。廣島椿は飛入(斑入り)の珍花で、三年前に献じられ、吹上花壇に植えらていた。秀忠はかねてより開花を待ちわび、庭園掛の者より初めて開花したことを告げられたにもかかわらずである。
  秀忠は、歴代将軍のなかでも飛び抜けて花好きで「花癖将軍」と呼ばれ、諸国から銘花を集めた。なかでも、特にツバキに対する関心が高かったと思われる。『武家神秘録』には「徳川二代将軍花癖あり、名花を諸国に徴し、これを後園吹上花壇に栽ゑて愛玩す。此頃より山茶流行し、数多の珍品を出す」と記されている。なお、“山茶”は漢字でツバキを指す。また、『徳川実記』の『台徳院御実紀付録』巻五にも、秀忠がかなりの植物マニアで、各地から名品珍品を納めさせて、後園に植えたという記録が残っている。
 秀忠が花好きが極まったのは、世情が安定し、財力にも恵まれて、家康以上に趣味の世界に没頭することもできたからでもあろう。また、少々意地悪な見方もある。秀忠には、将軍に就任してからも絶えず父の重圧がのしかかる。七つ年上の正妻・お江の方に終生頭の上がらず、側室を置くこともままならなかったというから、時には溜まった鬱憤を、花に夢中になることで晴らしていたのかもしれない。
 
★1620年代(元和~寛永年間)  江戸城御花畠の椿
『江戸図屏風』国立歴史民俗博物館蔵より
イメージ 2 元和六年(1620)十一月二十一日、江戸城本丸御殿にて秀忠主催の茶会、茶花に曙椿が活けられた。ツバキは茶花としても人気があり、この後に椿ブームが起きる。また、元和七年(1621)四月十一日の西洞院時慶(公家・医者)の日記『時慶記』には、近衛殿庭園新造され「泉水の岩を見、椿の枝をすかす」と記している。ツバキの管理に関する記述あり、庭木としてもツバキは欠かせない植物になっていた。
イメージ 3  実は椿への関心は、江戸時代以前からあって、豊臣秀吉も椿に一方ならぬ関わりを持っていた。それは、京都の地蔵院にある、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献じたという五色八重散りツバキや大徳寺総見院に残る太閤遺愛と伝えられるワビスケツバキの古木などの所在からうかがえる。また、これも真偽のほどはさだかでないが、北野・西芳寺の利休の「散りツバキ」というのもある。当時の上流階級の人々は、椿の良さを知ってこれを愛好していたことは間違いない。
  元和八年(1622)、江戸城本丸拡張工事に併せて天守台・御殿が修築され元和度の天守が完成した。さらに、寛永五年から(1628)から翌年にわたって本丸・西丸・外廓大工事が行われた。この時期以降、明暦の大火(1657年3月)以前に描かれた「江戸図屏風」(国立民族博物館蔵)に、「御花畑」がある。本丸の北側にある御花畠は、池や石組みなどによるいわゆる日本庭園ではない。かと言って実用本位の果樹園や野菜畑でもない。畠は方形で、奥の方には四季折々の花をながめるに恰好の東屋があり、その前にツバキや四季の花々が植えられていた。中で最も目立つのがツバキで、御花畑の左半分以上がツバキである。これはむろん将軍家の好みを反映したものと言っていい。
  御花畑にツバキは、9本、9種類描かれている。9種類のツバキは、珍しい花の咲くツバキであろう、中には黄色のツバキ、水色の花の咲くツバキもある。これだけの花を植えるには、単にツバキが好きなだというだけでなく、ツバキのことをよく知っている人でなければならない。また、右側の草花についても同様、花の種類、配置など植物に対する知識とセンスが問われる。そうなると、この御花畑を監修する人物は、寛永六年に十七回もの茶会を開き、そのうち十回、自らの手で茶花を活けたという、秀忠以外に考えられない。
  現存する江戸図の最古版とされる「武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)」の天守閣周辺を見ると、「江戸図屏風」で「御花畠」が位置したところは「御馬や」と記されている。作成された年は寛永九年(1632)、秀忠が亡くなったのも同じ寛永九年のこと。この時、将軍は三代家光で、どうやらその頃にはすでに「御花畠」は無くなり、「御馬や」になったものと考えられる。
   『小堀遠州茶会記集成』(底本は小堀宗慶氏所蔵本を主とし、足りない分は各家蔵本をもって補われる。)に記されたツバキを茶花とした茶会の日付を示すと以下のようになる。
寛永四年(1627)十一月廿六日朝  梅  つはき
寛永五年(1628)  二月十六日朝  椿
寛永五年(1628)  二月十九日朝  椿  □梅
寛永五年(1628)  二月  廿日昼  椿三色
寛永五年(1628)  三月  三日朝  桃  椿
寛永五年(1628)  九月十九日朝  かきつはた  つはき  きく
寛永五年(1628)  九月  廿日朝  つはキ  茶山花
寛永五年(1628)  九月廿六日朝  赤キ椿  水草
寛永五年(1628)  十月  四日晩  咲分ノきく  小椿
寛永五年(1628)  十月  九日晩  きく  つはき