茶庭 13 古田織部その4

茶庭 13 古田織部その4
織部の路地とは
 古田織部に関する本は、千利休に比べると多くはないが、10冊以上出版されている。その中で、織部の庭についてはもちろん、路地について書いている本は少ない。『風炉のままに―数奇大名・古田織部』(高橋和島)のような小説の場合は、物語の上で必要がなければ触れないだろう。だが、茶の湯に関する本であれば、路地について何らかの考察や見解があってしかるべきと思っていた。ところが、茶道の世界では大御所である桑田忠親(『古田織部 人と茶と芸術』『古田織部の茶道』)、久野治(『古田織部の世界』『古田織部の世界すべて』)らは、どういうわけか路地にはあまりふれていない。織部について書かれた本の中で、路地に関して言及しているのは『古田織部  桃山文化を演出する』(矢部良明)くらいであろう。
  桑田忠親や久野治は、茶の湯における織部の業績に路地を含めなかったのか。それとも、路地は茶道において言及するには価値が低い、と判断したのであろうか。茶の湯で、「路地」に多くの関心が持たれるようになったのは、織部以降ではなかろうか。それまでは、床飾り、茶器、茶碗、水差しなどの道具飾りや点前が重要で、路地はあまり問題にされていなかったのだろう。
 細川三斎の路地は、利休時代のような簡素な路地ではなく、色彩豊かであったという。三斎は、利休が路地について特段こだわっていなかったので、織部と同じような路地を構えたのではなかろうか。それをあたかも千利休の時代から、露地が茶の湯の精神に深く結びついているかのごとく後世に伝えたのは、南坊宗啓の『南方録』ではなかろうか。
 宗啓は、「露地は草庵寂寞の境をすべたる名なり、法華譬喩品に長者の諸子三界の火宅を出て露地に坐すると説き叉露地の白きと云ひ、白露地ともいへり、一身清浄の無一物底也、いにしへより在家の庭を露地といふ事なし、庭外面砌りなどいへり、寺院には露地の号あり、黙條の一境を、かの白露地にもとづきて名付、是利休居士世間の塵労垢染を雛れ、清浄の心境を表はしたる本意なり、かの書院台子結構の式よりかねをやつし、露地の一境を開き、一宇の草庵に点茶して、世間の塵境を出し導かんと也、露地清浄の外相は樹石天然の一境也、」と、『南方録』に記した。
  ここでは、あたかも利休が仏心から、露地の高い精神性を説いたように語られている。これによって、路地・路次を見る目は、数寄屋に付属する通路から一段高まった、「露地」として独立するとともに、茶の湯に不可欠な存在になった。つまり、『南方録』のおかげで「露地」は、「利休の精神」を深めるためにあると、誰もが考えるようになったのではなかろうか。
 さて、「利休の茶の湯」の原点に立ち戻って、再度「露地」について考えてみたい。利休は、「小間の茶室と新しい和物の茶道具をつくりだし、わび茶を大成した」(『千利休の「わび」とはなにか』より)とされている。利休は、茶室の広さを必要最小限にすること、茶室内の簡素化、建物の材質まで「寂」を極めたと思われる。もしそうであれば、路地もこの精神(強いて言えば、質素・簡潔)を受け継いでつくられるべきではなかろうか。
  ところが、利休の時代から織部の時代へと移るにしたがって、路地の面積は二重路地、三重路地と広がった。路地が拡大していることに、茶人たちは何も疑問を持たなかったのだろうか。「侘数寄者のため」という精神はどこへ行ったのだろうか。茶の湯の成立をもう一度ふり返ると、村田珠光は、喫茶を「闘茶」や「遊興の茶の湯」から精神性の高いものへと導いた。それは、当時隆盛していた豪華な唐物を使った茶の湯に対して、粗末な道具でも良しとする茶の湯、四畳半の茶室などという形で表現された。
 「侘数寄者のため」となれば、路地についても同様、必要最小限にすることが当然ではなかろうか。建物は狭く簡素化されているのに、路地は面積が広くなると共に色彩豊かに、外腰掛や中潜など様々な施設も配置している。これは矛盾してはいなのいか。さらに言えば、はたして茶の湯に路地(茶庭)は必要不可欠なものなのか、そうした原点を見つめ直すような議論はなぜ生じなかったのか、不思議に思う。
 
『露地聴書』
  路地(露地)について、織部と利休の基本的な違いを示した記述がある。それは、『露地聴書』(南坊宗啓)の「五」に「飛石は利休はわたりを六分、景気を四分に居申候由、織部はわたりを四分、景気を六分に居申候、先、飛石はわたりのためなればわたりを第一とす、然れども真直に同じ様につづけてはかたく候、無用の所にて態とひづませては作り物にて悪敷也、何ぞ木にても下草にても行当り候をよけ候ためにひづませ、又は石の取合により不足なる所に添石を置、夫より居続る様にわたりを第一にする也、尤、よき石は嫌なり、悪敷石にて能居なすべし、今時、物数奇とてあそこ爰に石をひつませ、わたりをかまはぬは心なきとて嫌ふ也。」(『露地聴書』編者・上原敬二  鹿島書店より)とある。
 この説明は、利休と織部の違いを明快に示している。ただ、これは南坊宗啓がはじめて示したものではない。『石州三百ヶ条』(『茶道古典全集』千宗室編纂  淡交社より)第二巻には、
「八  石に渡りひすミ有、石段狭き廣きに習有、
一飛石ハ利休ハ渡りを六ふん、景氣を四ふんに居申候由、織部ハわたりを四ふん、景氣を六ふんにすへ申候、先、飛石ハ渡りのためなれば、わたりを第一とす、然共、まつすくに同じやうにつゝけてハかたく候、それゆへひつミを取也、しかれとも無用の所にて、わさとひつませ候ハ作物にてあししき也、何そ木にても下草にても、いき當りをよけ候ためにひつませ、又ハ石のとめ合により不足成るところにすへ石を置、それより居へつゝくるやう渡りを第一にするなり、尤よき石ハ嫌ふなり、あしき石にて見立よく居なすへし、今時、物すきとてあそここゝと石をひつませ、渡りの心なきハ嫌ふ也、」とある。
  『露地聴書』と『石州三百ヶ条』の作成時期から考えれば『石州三百ヶ条』をコピーしたのが『露地聴書』であることは、明らかであろう。(なお、本庄宗泉著の『石州三百ヶ条聞書』には、この項がない。)
  この飛石の解釈は、「利休はどこまでも実用を本位とし、織部はこれと反対に鑑賞と美的を本位として据えた」(『露地・茶庭』北尾春道)とある。利休の精神から「わたりを六分、景気を四分」ということなのだろう。このフレーズ、わかり易いことから広く受け入れられているが、以下に続く文章との整合性は何ら検証されていない。
  そこで『露地聴書』と『石州三百ヶ条』の飛石に関する記述について検討しよう。「わたり」に続く文章を見ると、双方とも同じ項目が順に綴られている。それも、多少の表現の違いはあるもののもの、たとえば、「にじり上がりの石」寸法は一尺二寸というように、数値まで『露地聴書』『石州三百ヶ条』は、ほぼ同じである。
イメージ 1  では、これらの茶書に書かれたように飛石を据えれば、利休の「わたりを六分、景気を四分」が実現するのであろうか。文章だけではよくわからないので、図の付いた項目を見てみよう。『石州三百ヶ条』には、「一  かまほこたん、是ハねり土にてかまほこなりに作る、中によきころの石を居ゆる也、然共、あまり丸過候へハすへりあしく候、渡りに能様に上を平らかに少丸めに作り候石段ハ、利休事、大徳寺に在之石段を見て作るなり、」とある。続いて、右図が示されている。
  この図は、「飛石渡りひすみ」とあり、「わたりを六分、景気を四分」という飛石の基本精神を当然考慮して配置されたものであろう。しかし、図にある飛石(赤色)の間隔は、文章に指示した寸法以上で、前後の飛石と同じ程度離れている。これでは決して歩きやすいとは言えない。また、その石は方向を左へ折れる変曲点で、歩きやすくするには前後の石より広い(大きい)石でなければならない。
  文章だけではわからなくても、図に示すと一目瞭然で、この飛石の配置が利休の「わたりを六分、景気を四分」を図化したものなのだろうかという疑問が生じる。文章では飛石の配置について、もっともらしいことを書いているが、その項までに述べられたことが、この図には反映されていない。水色に塗った飛石などは、『露地聴書』では、図が稚拙なためか、見るに見かねたようで三分割して描かれている。それでも、それらの飛石は、利休の好む丸みを帯びた石ではなく、根府川石のような鋭い断面の石で描かれている。また「飛石渡りひすみ」の図は、どう見ても「わたりを六分、景気を四分」の飛石には見えない。
イメージ 2 さらに、目を疑ったのは、「石段」の図である。この石段の形式は、切石(自然のままの石ではなく加工した石)を導入するというもので、どう見ても織部以後につくられた形態である。『石州三百ヶ条』の図は、絵が下手なのを割り引いてもやはり、石の配置について無神経過ぎる、というしかない。『露地聴書』では多少修正されているが、はたしてこれが「わたりを六分、景気を四分」という配置なのであろうか。以前にも述べたが、茶書に描かれている図は、やはり信用できない。茶書には、路地・飛石に関する詳細な数値が綿々と綴られている、だが、その数値を的確に反映した図が存在しないのだ。これはどういうことなのであろうか。