江戸時代の椿 その3

江戸時代の椿  その3
 
★1660年代(万治~寛文年間) 椿・ナツツバキの写生・『松平大和守日記』の椿
・『草木写生
  万治三年(1660)三月、『草木写生』の椿が描かれる。『草木写生』は、狩野重賢(とは言え、この人物は狩野家の系図にはなく、経歴も不明)によって明暦三年(1657)から元禄十二年(1699)にわたって描かれている。その中にツバキは48品(花銘があるのは23品程)描かれている。描かれた時期は、その大半が万治二年から三年である。花銘を示す紹介すると、山茶・岐隼・八幡牡丹・雨ヶ下・シヤウドウシ・ヤハ物狂・モジスリ・江戸大輪・大坂モツカウ・吉野シボリ・獅子・チン花・ササ浪・シカムラ・乱拍子・越前シボリ・小町・七面・ホンマザサラ・飛入シンクリ・越前シボリ(前出とは別)・乱拍子(前出とは別)・カナスギサンガイである。
 
・『草花魚貝虫類写生』
イメージ 1  寛文九年(1669)、狩野常信(狩野派・幕府の御用絵師)は、『草花魚貝虫類写生』に「シャラ」(沙羅双樹・ナツツバキ)を描いた。ナツツバキは、東北地方以南に昔から生育している樹木ではあるが、『資料別・草木初見リスト』(磯野直秀)によると、文献に記されたのはこの時が初めてである。
  沙羅双樹は、インド北部に生育するフタバガキ科の植物である。本来、日本には生育しない木であるが、「祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色・・・」という、『平家物語』の一節のおかげで広く知られている。『牧野新植物図鑑』によれば、「シャラの木はこの木(ナツツバキ)をインドのシャラノキ(沙羅樹)と間違ったことに基ずく」とある。
  不思議なのは、少なくても平安時代から「沙羅双樹」の名は浸透していたにもかかわらず、日本の「ナツツバキ」の名が寛文年間まで記されなかったことである。沙羅双樹がナツツバキに似ているということで、誰かが間違えたのだろうか。間違えたとしても、その間違いに江戸時代まで気がつかなかったというのも解せない。ナツツバキは、『樹木図説』によれば、シャラノキ、シャ、シャラ、シャラジュ、サラソウジュ、シャラツバキ、サルナメ、サルスベリ、ヤマクリン、ソバキ、トチツツバキ、ハダカノキ、ハダカッポ、夏茶花などの別名がある。地方によって方言もあるだろうが、大勢の人の目に触れられていたと思われるのに、誰もナツツバキの名を記さなかったのは、不思議でならない。
 
 ・『松平大和守日記』
   『松平大和守日記』は、松平直矩が明暦四年から元禄八年まで記したものである。日記からは大名の生活状況に加えて、演劇・園芸・鷹狩・文芸など広く記述されている。直矩は、寛文七年閏二月に『作庭記』を書写させているように、庭への関心が高かったようで、ツバキについても日記に書いている。ツバキに関する記述があるのは、直矩が越後村上藩主の頃で、1660年代のツバキとして示す。
万治二年(1659)十月十日  吉田七左衛門ヨリ、しよくから椿一かぶつき来
万治三年(1660)九月九日  鳥越へ・・・同庭椿
寛文二年(1662)三月二十六日  椿花一色、武太夫くるゝ、日本と云
寛文四年(1664)三月二十日  椿の花、家中よりくるゝ
            九月三日  高縄屋敷居間之庭ニ・・・椿植
寛文五年(1665)二月三十日  椿漸開也 
            九月十二日  南ノ土手ニ椿植久
寛文六年(1666)四月二日  椿花盛
        四月五日 花色くるゝ、椿、
        九月二十二日  梅椿之花団隋より来初見之
        九月二十九日 植屋より早咲赤玉椿壱本、取寄之植也
寛文七年(1667)閏二月16日  椿も漸々咲
  なお以上のツバキは、江戸と村上の両地方の記録である。
 
★1670年代(寛文~延宝年間)  山茶花とトウツバキの渡来
・『花譜』
  寛文十二年(1672)頃から、貝原益軒本草学者・儒学者)は『花譜』を書き始めたらしい。『花譜』の優れている点は、植物の性質だけにとどまらず、栽培方法にまで触れていることである。実際、益軒は自宅で植物を栽培していたらしい。
 ツバキの記述を見ると、山茶花(つばき)「つばきは、さかり久しくしていとめでたし。花は歳塞をおかしてひらき、春にいたりて、いとさかんなり。葉は四時をおひてしぼます。これ又君子の操ありと云べし。日本にむかしより、椿の字をあやまりて、つばきとよむ。椿は漆の木に似て、其葉かうばし。近年唐よりわたる。又日本紀及順和名抄には、つばきを、海石榴とかけり。むかしは、つばきの数、すくなかりしが、近代人のこのむによりて、其品類はなはだおほくいできて、あげてかぞへがたし。からの書にも、其類おほき事をしるせり。山つばきいとよし。いろいろの変色は、よきもあり、あしきもおほし。九月より花さくもあり。凡つばきは六月につぐ。水つぎよし。さすには赤土よし。正月或梅雨の中に、させばよく活し。さして数年の後、花をひらく。葉虫を生せばさるべし。さらざればいたむ。赤土、黒土を好む。砂土にはよろしからずといへども、餘木に比すれば、さまで地をきらはず。凡、山木は赤土、黒土を好む。櫻、栗、山茶の類みなしかり。村民山茶をおほくうへて、其實をとりて利とす。山城の日野のさとには、つばきばたけあり。」とある。
  『花譜』は、ツバキを「山茶花」と記している。その理由は、上文にもあるように「椿」と「海石榴」の関係を意識したからだろう。また、「日本紀及順和名抄には、つばきを、海石榴とかけり」と、昔の表記を示している。さらに、「椿」は「漆の木に似て、其葉かうばし」と、チャンチン(香椿)とも記されている。

・『校正本草綱目』
  寛文十二年(1672)には『校正本草綱目』が翻刻された。貝原益軒が、当時、ツバキは椿と表記すのが一般的であったのを「海石榴」と示したのは、彼が『本草綱目』に精通していたからだろう。だが、『本草綱目』は、必ずしも正しくはない。『本草綱目』のツバキに関する項目を示すと、「山茶は南方に産す、樹生じて高きは丈許、枝幹交加・葉頗る茶葉に似て厚稜あり、中闊頭尖、面緑背淡く深冬花を開く紅弁黄蕊、格古論に云ふ、花数種あり、宝珠花花簇珠の如し最も勝れ、海榴茶花蒂青色石榴茶中に砕花あり、躑躅茶花は杜鵠花の如し、官粉茶花串珠茶皆粉紅花、又一捻紅千葉紅千葉白等の名あり、あげて数ふへからず、葉各々小異或は云、亦黄色なるものあり。」とある。上原敬二は、『樹木図説』で「本草綱目では山茶花と海石榴とを混用している」と指摘している。後述するが、『和漢三才図会』(寺島良安)で「海石榴は即ち山茶花の一類なり」とある。ということは『本草綱目』の「海石榴」は、日本原産のツバキを指しているものではない、と言うことになるのだろうか。
 
・『地錦抄付録』
  延宝年間(1673~80)『地錦抄付録』によると、トウツバキ(唐椿)が渡来。磯野直秀は、これが唐椿の渡来の初めとしている。(『明治前園芸植物渡来年表』より)
 
★1680年代(延宝~貞享年間) 『花壇綱目』の椿
・『花壇綱目』
  延宝九年(1681)、水野元勝による『花壇綱目』が刊行される。『花壇綱目』は、我国初の総合的な園芸書である。なお、寛文四年(1664)に出された稿本『花壇綱目』は、異名、花色、分植時期を記しているだけなのに対し、延宝九年(1681)の刊本には土質と肥料が加筆され、刊行されている。
  ツバキは以下のように、66種紹介されているが、ツバキの図はない。「志ら雲(白八重赤飛入)・雨が下(白八重大輪赤飛入)・いつも春(白八重赤飛入)・人丸(白八重大輪)・つるが絞り(白地紫絞)・本因坊(赤千重大輪)・まつかた(絞大輪)・うろこ(白八重赤飛入)・国不知(薄色八重赤飛入)・松かせ(絞り大輪)・むら雨(白八重赤飛入)・とみや(白八重赤飛入)・八幡絞(赤八重大輪)・舟井侍(赤八重筋入)・国づくし(白八重赤飛入大輪)・竹生島(白八重赤飛入)・ひの志た(白八重大輪)・朝日(白八重赤飛入)・八幡飛入(赤八重白飛入)・太はく(白八重大輪)・青腰蓑(白八重大輪)・太白玉(白一重大輸)・ほうくわ(白八重赤飛入)・鶯(赤八重咲大輪)・郭公(白八重赤飛入)・貴船椿(白八重赤飛入)・大いさはや(赤一重白玉入大輪)・岩田(白八重大輪)・あさのはや(白八重赤飛入)・妙義院(赤千重白飛入)・奈良の都(白八重赤飛入)・志ろ菊(白八重大輪)・清がん寺(白八重赤飛入)・参国(紫八重赤飛入端白)・壬生万代(白地赤飛入)・玉志ろ(大輪)・光徳寺(赤千重白玉入)・めい山(白八重大輪)・西王(薄色八重)・ちん花(白八重赤飛入)・大つま白(薄色地赤飛入八重)・京飛入(花腰蓑大輪)・千本飛入(赤八重白飛入)・小倉(白八重赤飛入)・物のみ山木(白八重赤飛入)・与一椿(赤万重大輪)・志く椿(赤地白飛入千重)・高尾(白八重薄色飛入)・あられ(八重大輪)・一せき(赤千重白玉入)・名月(白八重赤飛入)・金杉(白八重飛入赤)・韋駄天(白八重早咲)・ほの椿(白八重赤飛入)・八重絞(大輸)・だるま(赤八重大輪)・清水絞(白八重赤絞)・みやこ(白八重赤飛入)・かうらい高麗(白大輪)・さびふ(赤千重白玉入)・八阪飛入(白八重赤飛入)・ぬき白(八重大輪)・しゆしやか(白八重赤飛入)・とつ(白八重赤飛入)・初夜のはた(白地薄色一重早咲)・薮椿(赤白単各種中輸)」。
  以上、『花壇綱目』に記されたツバキと『草木写生』に描かれたツバキの名称が同じなのは、「雨ヶ下」程度で、他のほとんどは違っている。