江戸時代の椿 その4

江戸時代の椿  その4
★1690年代(元禄年間) 『花壇地錦抄』『江戸参府旅行』『農業全書』の椿、ツバキ、山茶

・『花壇地錦抄』                                                     有川 cibaさん提供
イメージ 1  元禄八年(1695)亥初春、『花壇地錦抄』は、江戸染井の植樹家、伊藤伊兵衛(武陽染井野人ノ三之蒸)が書いたもので、江戸大伝馬三町目の志村孫七によって開板された。「花壇地錦抄  二」「椿のるい(木春初中)」として、「ある川・乱拍子・春日野・わかくさ・乱鹿子・通鹿子・月光・とりどり・白見驚・大もみじ・初花・指まぜ・本間絞・あまがさき・二重大りん・奥州かすみ・うすがすみ・見さん・一休・はやふね・かんか・大白菊・紅菊重・大なみ・侘助・うすさらさ・あせいし・からあい・こきょう・千鳥・くちべに・しゅらん・ほり・うすゆき・通千鳥・秋津嶋・牡丹絞・たんちょう・大れんげ・せんし紅・小しぼり・江戸さらさ・玉川・大猪・さき山・白菊とじ・しらつゆ・塩田飛入・あいの山・はごろも・大乱・しげん紅・ごしょ車・見ささき・白松がえ・べにしぼり・星そこ白・おしろ白菊・菊かさね・しつくら・おとわ山・うすかずら・赤縮緬・小桜・赤見驚・りゅうさ川・たんじゅ・しんし・青玉・中ほん・ほとり・倉橋・あさつま・小蓮花・せつさん・ほし中白・今井・じんじょう・見越・蓮花紅・おとなし・皆薄衣・小柳・もの川・まんしゅ・赤紅・戸田飛入・うすしも・いだてん・赤大和三がい・あわゆき・雷雲・加平・じゅうりん・おもかげ・一輪・錦しょっこう・菊しょっこう・紅葉・加州・四谷三階・白菊・ふじの山・山桜・うすごろも・ちん重・岩清水・月影・上ぼん・一筋・横川・平吉・ふじの雪・とまや・白関守・赤飛鳥川霞が関・しょうじょう・白もみじ・雪赤・八代・いもせ・四国さらさ・みなもと・松島・かがみ山・大白蓮・中白・あわじ嶋・しばがき・みょうきりん・紅車・ますかがみ・人丸・晴天・藤ばかま・四ヶ村・はつせ山・金水引・高砂・ひえい山・しゃむろ・清花・出羽大りん・喜右衛門・乱猪・石榴・尾張大輪・熊坂・あわもり・大山木・八重星・きりすみ・天野崎・酒呑童子・白菊とじ・青柳・桔梗絞・荒波・南蛮星・みおつくし・内雲・はつせ・一重松風・松かさ・みやまぎ・立田川・緋車・星火車・紋錦・鳴門・ともえ」の206品種が紹介されているが、図はない。ツバキの花形、花の柄、花の大小などの特徴が簡単に記されている。
 なお、『花壇地錦抄』には、ツバキに続いて、サザンカが紹介されている。「山茶花のるい」として、50品種示されている。
 『草木写生』など以前に記された品種名との関係は、ほとんどないものと思われる。しかし、『花壇地錦抄』には、有川(あるかわ)・春日野・南蛮星・松笠など、現代に残る品種がいくつもある。  また、『花壇地錦抄』には「草木植作様の巻」があり、ツバキについても記されている。「椿 植替五月中旬、春をきらう。接木、指木も五六月。よびつきは常なり。指接は枝を長く切り土にさしてつぐ。水接は枝を切り、きり口を水につけてつぐ。三日に一度ほど水を入れかえたるよし。つぎ様は台木を引切り、鋸目をけずり、うす茶二三ぶくのむほどの間を置いてつぐべし。引切りてそのままつぎては切口より水出ていたみとなる。さてけずり様はつねの如くあま皮ばかりなり。あさいとの湯づきたるにてよきほどにまき、上に竹の皮かぶせて置くべし。すべて椿は根をことごとく切りてすてたるよし。根のよきは枯れる物なり。
山台といいて、根のあらきを上とす。指木は切口を二つにわりてさすべし。わりたる所より根出る。尤も冷水に二時ほどひたして。」とある。
  この挿し木の方法、現代にも通じることは言うまでもない。
 
・『江戸参府旅行』
  1691年春  ドイツの博物学者・エンゲルベルト・ケンペルは、長崎から江戸へ向う途中の山岳地帯でツバキを見ている。「山地には例外なく清水が湧き出ていて、いつも緑の茂みをくぐって旅ができ、特に春には、花をつけたフジ・ツバキ・サツキ・ウツギ・テマリカなどの灌木や樹木が、旅人の心を大へん楽しませてくれて、実際に、これまでどこでもこれ以上のものは見られないほどの眺めである。」と『江戸参府旅行』(斎藤信・訳)に記している。ケンペルは、その後、見聞記『廻国奇観』で、当時のヨーロッパにツバキ(日本の椿)を紹介している。
 
・『農業全書』
  『農業全書』は、宮崎安貞によって元禄十年(1697)刊行された日本最古の農書である。『農業全書』巻之九諸木之類に「山茶、俗に椿の字を用ゆるは非なり  第十二」として「山茶は花を賞するのみならず実を取りて油とすれば甚民の助く山辺など屋敷廻り土地を見合せて多くもうゆべし幹は材木ともなるものなり」とある。
 
★1700年代(元禄~宝永年間) 『大和本草』の山茶
・『大和本草
  宝永七年(1709)、『大和本草』が貝原益軒の編纂で刊行された。『大和本草』は、独自の分類で1,362種を収載した本草書である。
  ツバキは『大和本草』で、「山茶(ツハキ)  日本紀天武天皇十三年三月、吉野人宇閇直弓貢白海石榴、延喜式ニモツハキヲ海石榴トカレリ、順和名抄モ同、其葉厚シ、アツバノキト云意ナリ、花ハ単葉アリ重葉アリ千葉アリ紅アリ白アリ、山ツハキハ紅ノ単葉ナリ。○ツハキノ実ニ脂アリ、無毒好事ノ者油ヲトリテ諾品物ヲ煎シ食ス、味胡麻ヨリカロク無毒ト云、本草ニ婦人ノ髪月直ルニ研り末ノ之惨、又本草綱目ニ山茶ニ海榴茶、石榴茶アリ、是ツハキノ品類ナリ。日本ノ古書ニツハキヲ海石榴トカケルモ由アル事ナリ、酉陽雑爼続集に曰、山茶ハ海石榴に似、然ラハ山茶ト海石榴ハ別ナリ、凡山茶ハ花ノ盛り久シ、葉モ花モ美シ、多クウエテ愛玩スヘシ、ツヽシヲ植レハ枯ヤスシ、山茶ハ枯ヤスカラス、昔ハ本邦ニ紅ノ単花ノミアリテ、白ツハキモマレナリ、寛永ノ初ヨリ、ヤウヤクツハキノ数多ク出来シニユ、鳥丸光広卿ノ百椿図序ニ此頃世ニモテハヤシ品多クイテキタル事ヲカケリ、天武ノ御時ハ古代ナレハ草木ノ奇花マレナルヘシ、白ツハキヲ、メツラシキ物ニセシハムベナリ、今ハツハキ紅白、単葉、重葉、千葉其品多クシテ数ヲ知ラス、玉島山茶ハ無蘂葩多、一花ニ凡七十余片ハカリアリ、白アリ、紅アリ、山茶ノ奇品ナリ、又南京山茶アリ、葉長ク葉ノ色常ノツハキニカハレリ、花モ葉モ異ナリ是亦奇品ナリ、十輸山茶アリ、一樹ノ中紅白数種、異品多ク開ク、山茶ハ春植ルニ宜シカラズ、五月中旬ニ植ベシ、五六月枝ヲ挿ス、マタ春モサスヘシ、小枝切テ葉ノウラノ枝ノ末ヲ一寸半許馬ノ耳ノ如クソギ、切口ヲ二ニワル、ワリタル処根生ス、冷水ニ浸シ置テ挾ヘシ、枝ヲ切テ後暫時モ乾カシムル事ナカレ、赤土ヲ泥トシ鶏卵ヨリ大ニ丸シ、枝ヲ赤土ノ丸ニテ包ミ土ニエフ、挾ムハアシ、シハシハ水ヲソヽキテ土ヲ乾カシムヘカラス、能活シテ後移シ植フ、四五年ヲヘテ花サク、サシツキモヨシ、ツハキハ山茶ト云ヲ日本ニイツノ時ヨリカアヤマリテ椿ノ字ヲバツハキトヨメリ、順和名抄ニモアヤマツテ椿ヲツハキト訓ス、ツハキハ椿ニアラス、椿ハ近年寛文年中カラヨリワタル香椿ナリ」とある。
  『大和本草』のツバキの記述は、『花譜』のツバキと基本的には変わらない。ただ、「南京山茶アリ、葉長ク葉ノ色常ノツハキニカハレリ、花モ葉モ異ナリ是亦奇品ナリ」と、トウツバキがすでに渡来していたと思わせる記述が見られる。