江戸時代の椿 その6

江戸時代の椿  その6
★1710年代(宝永~正徳~享保年間) 『増補地錦抄』『廻国奇観』『和漢三才図会』『広益地錦抄』の椿、海石榴
・『増補地錦抄』
 宝永七年(1710)、『増補地錦抄』が伊藤伊兵衛(政武)により刊行された。この書には、「卜伴椿・頳縮緬椿・白鷴椿・杜鵑椿」の4種の名称と解説、11種の図が添付されている。このうち、図と解説が重なるのは2種で、13種の椿が紹介されている。
  なお、『生活の古典双書  花壇地錦抄・増補地錦抄(増補分)』(編輯  京都園芸倶楽部  八坂書房)の『増補地錦抄』には、「○椿のるひ・かぎり・おきの波・さゞれ波・唐椿・染小袖・白ちんくわ・たますだれ・獅子吼・白鴈・鶏の子・たまさか・乱紅・行幸・八朔」の以上14品と8種の図が載っている。この『増補地錦抄』の開版年は、『花壇地錦抄』と同じ元禄八年(1695)である。
  『地錦抄』をはじめ、伊藤伊兵衛が著した本は、紛らわしい名前の本がいくつもあるようだ。そのことについて、磯野直秀は「『地錦抄』の剽窃本」(1998)を発表している。詳細については、これを参照されたい。
 
・『廻国奇観』
  1712年、エンゲルベルト・ケンペルは見聞記『廻国奇観』を発表した。その中に、2頁半にわたりツバキとサザンカが載っている。23品種と品名のないもの6品が記されている。特に、注目すべきはツバキの図で、花と葉だけでなく、実も描かれ、断面図まである。そして、図の左上に「椿」の字が記されている。ただし、木偏の右側・旁の「春」は、「日」が欠落している。
 
・『和漢三才図会』
 正徳三年(1713)、『和漢三才図会』が寺島良安によって刊行された。 
 『和漢三才図会』には、ツバキについて以下のように記されている。
  「海石榴(つばき) 椿『倭字』
  椿はもと喬木の類、樗椿なり、海石榴の仲間とは全く異なる、万葉集  本朝式 和名抄  皆椿に海石榴を用い豆波木と訓ぶ、それ以来久しい
 海石榴は即ち山茶花の一類なり、樹葉花実、山茶花に似て其実の状円にして無花果に似、老枯すれば則ち殻四裂して中の子、海松子の如し、皮を剥き仁をとり、油を搾取す、木実油と謂ふ、刀剣に塗れば則ち繍を生ぜず、以て漆器を拭へば則ち艶を出す、髪に塗れぼ亦艶美、然して髪韌せず、麻油に和して髪油となして佳、但千弁なるもの実を結ばず、其葩厚く大、艶美にして牡丹育薬に亜ぐ、惟恨むらく共萎むや甚だ醜し、其落るや亦脆きのみ、単弁赤きは山椿と名づく、これ乃ち本源なり、白紅粉絞紅或は白相半、八重千弁の数種枚挙せられず、秋より莟を生じ春花を開く、冬開くものは早開と名づく、人以てこれを賞す、凡そ椿の直木を伐りて火に煖むれば則ち皮能剥ぐ、肌滑なり、僧家以て佳丈となす」とある。
  原種のヤブツバキ、白色や絞り、八重千弁などの花についてだけでなく、椿油や杖など、ツバキの活用法にまで触れている。                                                                                    唐椿(カラツバキ)cibaさん提供
イメージ 1  また、『和漢三才図会』には、「蜀茶(からつばき)  今は加良豆波木という
  蜀はいまの四川の地、ここから産出するものは皆佳い、蜀椒  蜀葵  皆佳い種なり
『五雑組』に云う、閲中(福建省)に蜀茶の一種がある、牡丹に匹敵するものである、樹は山茶に似て大、高いもので一丈余、花の大きさも牡丹のようである、色は正紅、二、三月に花を開き、園林を照り輝かす、恨むらくは香りがやや牡丹に及ぼないことである
△考えるに、日本に唐海石榴というのがある、樹は相似て葉は狭長、色は淡くて光沢はない、葉紋は縦横に細くついていて甃(イシダタミ)状に似ている。花は重弁で大きく、色は正紅、牡丹の如し、いわゆる蜀茶とは是れである、ただし枝朶は柔韌、葉も多くはない、大木は稀である
凡そ  『本草綱目』には山茶花(サゝンクワ)と海石榴(ツハキ)とを分けず混同して注している、二物は同類といえども、葉花の厚薄は大きく異なる、凡そ子から生え出るものは皆単葉(ヒトヘ)で山椿という。ゆえにこの枝に接木する  あるいは六月に陰地に挿し植えすると活く」とある。
  なお、『東洋文庫』の『和漢三才図会』(島田勇雄ほか訳)の注として、「『本草綱目』には山茶花と海石榴とを区別せず……良安は山茶花を「サザンカ」として「ツバキ」と区別しているが、『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂、昭和五十年)や『日本中国植物名比較対照辞典』(東方書店、一九八八)では、『本草綱目』と同様、中国の山茶は日本の「ツバキ」に当るとしている。」とある。
  参考に、サザンカの記述を示すと、「山茶花(さざんくは、サンチヤアゝ)
左牟佐久波  字の音なり、誤って山茶花という、
本草綱目』、山茶は南方に産す、樹生じて高きは丈許、枝幹交加・葉頗る茶葉に似て厚稜あり、中闊頭尖、面緑背淡く、茶の代りに飲む、それ故茶という名が付く、深冬花を開く紅弁黄蕊、花数種あり、宝珠花花簇珠の如し最も勝れ、海榴茶花蒂青色石榴茶中に砕花あり、躑躅茶花は杜鵠花の如し、官粉茶花串珠茶皆粉紅花、又一捻紅千葉紅千葉白等の名あり、あげて数ふへからず、葉各々小異或は云、亦黄色なるものあり。
 南山茶の花(広州に出る)、中国のものの倍もある、色は微淡、葉は薄く毛あり、梨の如き実を結び、大きさ拳の如き、中に肥皀子の大きさの核が数ある。
『遵生八牋(じゆんせいはつせん)』に云う、山茶花は磬口に似て、外が粉紅色のものは、十月に開き、二月にやむのが数種あり、
鶴頂茶花は、碗ぐらいの大きさ、羊の血のような紅、中心は鶴の頭のように詰まっている
瑪瑙茶花は、黄・紅・白・粉の四色あり、心は大き紅の盤を為している
△考えるに、山茶花は樹・葉・花・実、海石榴と同じで小さい、葉は茶の葉の如き、実は丸長、形は梨の如く、微毛あり、小梅の大きさほど、老い裂ると中に核が三、四顆ある、油を絞ると海石榴より多し、すべてその種の子は佳くなく、枝接がよい、大体、山茶花は冬が盛り、海石榴は春が盛りとなる(遠州山茶花の大木があ、幹廻り三尺余、高さ三丈余)」とある。
 また、『東洋文庫』の『和漢三才図会』(島田勇雄ほか訳)の注には、「山茶花 中華の山茶は日本のツバキ、日本の山茶花は中華の茶梅にあたるとされている。」と書かれている。
  なお、『東洋文庫』の竹島惇夫の各部解説には、「本書では、ツバキは巻八十四に『山茶花』『海石榴』『蜀茶』の三項目にわたって説明されているが、良安の『苗は厚大で艶美で、牡丹・芍薬に次ぐものである』『白粉・紅粉・紅絞、紅と白がまじり合ったもの、八重、千弁の数種があるが、ここでは枚挙しない。秋から莟が生じ、春に花を開く。冬に開くものを早開といい賞美する』といった言葉に、こうした世間の雰囲気をうかがうことができよう。隋の煬帝『宴東堂詩』に『海石榴』が歌われていることは、日本のツバキが隋代以前に中国に渡っていた証左とされるが、これは宋代以後になって中国南東部(揚子江以南)に自生する海榴茶花・官粉茶花などのツバキ属と一括して、山茶とよばれた。良安は、この山茶花に『さざんか』の訓みを与えているが、サザンカは日本特産のもので、この訓みは妥当とはいえたいように思われる。『蜀茶』はこれとは別の、雲南省サルウィン川上流域原産のもので、中国でも明代にたってから普及し、『地錦抄附録』(一七三三)によれは、延宝元年(一六七三)に日本に渡来したとされる。ところで『山茶花』の項に別種の山茶として記されている南山茶花は、おそらく『蜀茶』と同じものと思われ、これは異なった資料に依ったため、同一種が重出したものであろうか。『花壇綱目』ではツバキの品種六六、『百椿集』では一〇〇種、『花壇地錦抄』(一六九五、元禄八年刊)では、二〇六種にも品種分化されている。」とある。
 さて、上記の話の中のツバキについて、「日本のツバキが隋代以前に中国に渡っていた証左」を考察してみたい。
 【宴東堂詩】には、「雨罷春光潤。日落暝霞暉。海榴舒欲盡。山櫻開未飛。清音出歌扇。浮香飄(《初學記》作?。《詩紀》云。一作?。)舞衣。翠帳全臨戶。金屏半隱扉。風花意無極。芳樹曉禽歸。(○《初學記》二十四。文苑英華百六十八。《詩紀》百二十。)」とある。
  以下も、yahooからの検索で、それを和訳(翻訳技術提供:株式会社クロスランゲージ)したものをそのまま示す。
「雨は春光が利潤をやめます。日の入りの暝の霞の暉。大海の榴は欲が尽を伸ばします。山桜開はまだ飛びません。清音はうちわを歌唱することから出します。香飄が浮く (《習い初め屋》は?を作ります。《詩紀》は言います。ちょっと?を作ります。) 舞衣。翠帳は全部家に臨みます。金屏ハーフは扉を隠します。風の花意无極。芳樹の暁鳥類は帰します。 (○《習い初め屋》24。文苑の英華の168。《詩紀》120。)」とある。
  この訳は適切ではないが、「海榴舒欲盡。山櫻開未飛。」は「海榴開きそのままを欲し、山桜開き未だ散らず」とでもなりますか。それでも「海榴」「山櫻」を「ツバキ」「ヤマザクラ」と断定することは困難だろう。「海榴」を日本のツバキだと断定するには、「海榴」=「海石榴」を証明しなければならない。そもそも、「海石榴」はどこの国の文字なのか。もし、日本のツバキが中国に渡り、かの地で「海石榴」と表記されたとすると、隋の煬帝(7世紀始めに在位)が、「海石榴」と書くべきところを「海榴」と間違えたことになるわけだが、そんなことがあり得るだろうか。
  また、「山櫻」にしても、もし、煬帝が日本から中国に渡ったヤマザクラを見て感動したら、それ以降、日本のヤマザクラ(ツバキも)についての記述がもっと多く登場してしかるべきであろう。また、場合によっては、大陸から日本へ逆輸入されるということも考えられる。ところが、どうもそういった形跡は見られない。したがって、この件も、サザンカと同様、読み違いをしている可能性が高いと思われる。なお、「海」という字が付けば、海を越えたと考えるのは早計であろう。他にも、海紅(海棠)のように、中国に自生する植物の名に「海」という字がつくものは多く、海桐、海梧、海南木、海金沙草などたくさんある。また海松のように朝鮮から、海を越えずに入ってきても「海」を冠する植物もある。
 
・『広益地錦抄』
 享保四年(1719)、『広益地錦抄』が伊藤伊兵衛(政武)により刊行され、ツバキも掲載されているが、内容は『増補地錦抄』と同じもの。