茶庭16 小堀遠州 その1

茶庭 16 小堀遠州その1
 
小堀遠州の作事
  日本の庭園作家で最初に思い浮かぶのは、小堀遠州だろう。庭づくりの名人というイメージは、広く浸透し疑う余地もない。ただし、茶の利休、庭の遠州は、共に後世の人々に伝説的なまでに信奉され、幾多の伝承や虚実入り混じった逸話の上にイメージが創られていると言ってもよいだろう。後世の人々は、これが遠州の庭だと言われれば、その通説を信じ、最初からその先入観で鑑賞し感動している。
  遠州の名がよく知られているのは、彼の作だと伝えられる庭があちこちに存在するからである。だが、実を言うと、遠州の作品だとと実証されている庭は、意外に少ない。と言うのも彼が、幕府の建設関連の仕事をするようになったのは、二十八才(1606年)、御陽成院御所の作事奉行に任じられてからのことである。
慶長十一年(1606)御陽成院御所の作事奉行を命ぜられる
慶長十三年(1608)駿府城作事奉行を命ぜられる。その功により従五位下遠江守に任ぜらる
慶長十七年(1612)尾張名古屋城天守作事奉行を命ぜられる
慶長十八年(1613)禁中作事奉行(惣奉行・板倉伊賀守の指揮下)を命ぜられる
慶長十九年(1614)備中国松山城の修理を行う
  『小堀遠州』(森蘊)によれば、「慶長年間における禁裏・仙洞・駿府城名古屋城などの作事では、遠州はそれほど重要な部分が割り当てられておらず、賦役奉行の域を出ていなかったと見られる」とある。遠州と呼ばれるようになったのは、駿府遠州)で名園をつくったからと思っている人もいるが、実は城の普請であった。
元和三年(1617)伏見城本丸書院の作事奉行を承わる
元和四年(1618)五味豊直と女御御殿作事奉行となす
元和六年(1620)大坂城外曲輪櫓修理、山岡景以と作事奉行に加えられる
  女御御所の作事を受け持つ四十才(1618年)頃から、遠州は作事奉行として重要視されるようになり、元和九年に伏見奉行に任ぜられる。さらに、遠州が独自の意匠を発揮できるようになったのは、四十六才(1624年)頃、寛永年間に入ってからである。                                                             二条城庭園
イメージ 1寛永元年(1624)二条城および同城行幸御殿の作事奉行を承わる
寛永三年(1626)大阪城天守並びに本丸御殿の作事奉行を承わる
寛永四年(1627)仙洞女院御所作事を奉行する
寛永五年(1628)二条城二の丸の普請奉行をつかさどる
寛永六年(1629)江戸西の丸新山里の新庭指揮のため江戸に赴く
  庭の改修や改造ではなく、本格的な作庭に取り組むのは、遠州が五十才を越えてからのこと。作庭で評判を得たために、二条城の普請奉行として多忙の中、将軍の要請で江戸城内を作庭した。「遠州の好みにて庭中に池をうがつ」とあり、褒美として千両という大金を下賜されたという。
 またこの頃、南禅寺塔頭金地院の東照宮社殿などの建築に関わっている。寛永九年に完成した方丈前鶴亀の庭園は、現存する遠州作の貴重な作品である。
寛永十年(1633)近江国水口城(御茶屋)修造の奉行を命ぜられる。仙洞・女院御所庭泉水の奉行を仰せつかる。江州伊達御茶屋作事を仰せつかる。二条城本丸数寄屋作事仰せつかる
寛永十一年(1634)仙洞御所庭泉石構造の奉行拝命
寛永十三年(1636)江戸滞在中、品川御殿御茶屋を造る
寛永十五年(1638)品川御殿山に隣接した東海寺の客殿・数寄屋などを指導
寛永十七年(1640)禁裏および新院(明正院)御所造営を奉行す
寛永十九年(1642)明正院御所普請奉行に任ぜられる
  遠州は六十四才で明正院御所普請奉行に任ぜられ、その年の十月から4年間江戸詰となる。ただ、この頃になると、遠州は体力的な衰えが進み、現地で指示することはなくなったようだ。しかし、創作能力は衰えることなく、隠居所兼菩提所としての孤篷庵を移転させ整備している。なお、孤篷庵は150年後に罹災したが、復元的再建が行われ、遠州の代表作として遠州好みや特徴をよく現代に伝えているとされている。
 以上のように遠州の作事の記録を見ると、作庭よりむしろ建築の方が多いように感じる。また、遠州と呼ばれる以前は、建築や作庭より行政職務の遂行に手腕を発揮していたようで。彼が芸術面で卓越した才能を有していたのは確かだが、役人としての行政能力が伴わなければ芸術面での業績を残すことはできなかったと思われる。