茶庭 18 小堀遠州その3

茶庭 18 小堀遠州その3
 
小堀遠州作の庭園
  遠州ならではの独創性が発揮されたのは、建築より庭においてである。その理由としては、建物をデザインする際に行事や儀式に使われるため、また以前からの伝統や様式もあり、デザインの自由度は制限さることが考えられる。そのため、強烈な自己主張は控えざるを得ないのではなかろうか。それでも、遠州らしさが発揮されていると思えるのは、数寄屋であろう。詳しい形態については、茶書等に茶人の作品ならではという特徴が記されているので、ここでは触れないことにする。なお、この作風も織部と同様、「遠州作」と「遠州好」の違いを見極めながら読むことが大切である。
  「遠州作」と「遠州好」の違いは、よほど作庭に関心がなければ見分けるのが難しいだろう。現に、庭園研究家のなかでも意見が分かれている。遠州の業績を知るには、森蘊の『小堀遠州の作事』『小堀遠州』を読むことが、まず必要である。特に、『小堀遠州の作事』は実証的な研究であり、彼の庭を理解するにはこれを読むことが不可欠と言える。そのため、彼の研究に異論を唱えるにはよほどの論拠がなければならない。
  『小堀遠州の作事』に記されている、遠州が関与した主な庭園は、以下のとおりである。

・仙洞御所
 遠州が作庭した庭として、まず挙げられるのは、仙洞御所と女院御所であろう。もっとも、現在の仙洞御所の庭園は大きく改変され、遠州が作庭した当時の庭ではない。緩やかな曲線を使った回遊式庭園とは異なり、池を舟で八種類の橋を潜りながら景色の変化を眺めるという庭であったと考えられる。女院御所は、まるで城壁のような直線的な地割りの池が存在するという、極めて斬新なデザインであったと思われる。現在の庭の中で、遠州の面影は、切石護岸に一部が残っている程度である。女院御所の庭は、現在は仙洞御所の北側の庭となりその面影をほとんど残していない。
  田中正大は『日本の庭園』で、仙洞御所の庭園について「現状とあまりにも違いすぎるので、現在の庭園をもって、小堀遠州を論じていた人たちが気の毒になるくらいである。」と述べている。現在ある仙洞御所は確かに、世界に誇れる素晴らしい名園である。もし、何も知らない人が、他の人にこの庭は小堀遠州が作庭したと言われたら、おそらく信じてしまうだろう。庭園を良く見て研究していた人ですら、間違えていたのだから、始めてみる人に見分けられるはずがない。そして、このような誤りは、仙洞御所だけではないと思われる。特に遠州作とされる庭園は、数が多いだけに注意する必要がある。

 
イメージ 1・二条城二ノ丸庭園
  この庭は、当初二条城が造られた慶長七年(1602)~八年頃築庭されたものと考えられている。それを寛永寛永三年(1626)の御水尾天皇行幸のために、遠州が改修したものである。改修にあたって、遠州行幸殿・黒書院・大広間という三方からの鑑賞を考慮しながら、石組の配置に力点を置いている。この作事も、現場は賢庭が担当し、遠州は景観を主とした総指揮という形で関与したようだ。現在は、回遊式庭園と言われているが、遠州は建物から見ることは考えていたが、回遊することなど考慮していなかったと思う。また、派手な石組みが林立する庭は賢庭の感覚か、「綺麗さび」という遠州ならではの感性が出ているとは感じられない。なお、この庭も、その後吉宗の時代に改修が行なわれ、明治になってから宮内省に所管が移され、5回以上改修されている。
 
イメージ 2南禅寺金地院大方丈庭園                                          東照宮
 「鶴亀の庭」とも呼ばれる庭は、東照宮や数寄屋と共に、現存するものの中では、遠州によって作庭されたと証明できる唯一の庭園である。将軍の来訪を意識した「御成りの庭」で、大海に蓬莱山、亀島と鶴島を対峙させ、中央に遙拝石を配置した、いわゆる枯山水である。現在では、東照宮は木々に隠れて庭からは見えず、庭との関係がわからない見学者が多いようだ。遠州は、むしろ遙拝石から丸見えにしないよう、木々の枝を御簾としてあしらったのだろう。庭と東照宮の高低差は約3メートル、遙拝石からの仰角を考慮するなど、遠州ならではのランドスケープである。石組みは、これもまた賢庭が担当し、植栽は家臣の村瀬左介が行うという分担で完成している。
 
遠州の居宅
  遠州の住んだ屋敷、伏見の六地蔵宅、大坂天満宅、京都三条宅、伏見奉行所屋敷などの庭は、当然のことながら彼の手が加わっていただろう。これらの庭は当時のまま現存してはいないものの、伏見奉行所屋敷の庭は、茶書などから遠州らしい作風を読み取ることができる。ただ、数寄屋の室内については正確な様子がわかるものの、路地については路地の寸法や配置に整合性の取れない記述があるとされている。

・孤篷庵
  当初の孤篷庵は、当初慶長十七年(1612)に造営された。その後、寛永二十年(1643)から移転を開始し、遠州の没後慶安元年(1648)に完成したが、寛政五年(1793)焼失した。現存する孤篷庵は寛政九年(1797)、古い指図にそって復元的な再建をしたものである。そのため、建物はもちろん、庭についても、石橋・敷石道・露結手水鉢などに遠州ならではの趣向が残されている、と言われている。ただ気になるのは、遠州は、孤篷庵建設時には作事奉行として江戸詰で不在であった事実である。建物はともかく、庭の景色に関して微地形の処理など、どの程度本人が指示したか。もしかすると、庭は後になって徐々に手を入れたのではないかとも考えられる。また植栽は、直線的な刈り込みなどが焼失するまでの150年間変わらなかったのか、という疑問も残る。現況の孤篷庵は、松平不昧が再建時に様々な手を加えたものである。「再建時の庭園に旧来の石材がどの程再利用されたかについては不明である。検出された多数の花崗岩は、むしろ十八世紀末の復元工事の際に搬入された可能性が大きい。」と尼崎博正は『庭石と水の由来』で述べている。石材からの指摘は、庭園の作庭時期を確定させる資料として無視できないと思う。また、デザインからの詳細については、『日本庭園史大系  江戸初期の庭(八)』(重森三玲他)があるので参照されたい。
 
江戸城西の丸山里の露地
  この庭は、遠州が植栽だけでなく、飛石に至るまで隅々に渡って、手を抜かずに直接現場で指導したとされている。露地の見越しに富士山を取り入れるなど、景観の変化に富み、将軍も気に入ったらしく、千両の褒章を受けている。なおこの庭は、後日一部が改変されたことで、遠州の造庭技術家としての技量が問われるのでは、と言う話も出たが、森蘊はそこをキッパリと否定している。もし、この庭が現存すれば、遠州の作庭を知る上で貴重な資料になり、彼の作意もかなり解明できたであろう。

・東海寺の庭園
  品川の御殿山に隣接した場所に、東海寺の客殿・数寄屋と庭園を遠州が設計・施工管理を行った。起伏のある地形を活かし、湧泉の池という庭は、天倫撰の八景の一浴凰池とされた。なお、この庭園は、現在東京都の権現山公園になっているが、当時の形態はもちろん、面影すら残っていない。