江戸時代の椿 その9

江戸時代の椿 その9
 
★1740年代(元文~寛保~延享~寛延年間)『庶物類纂』の椿
・『庶物類纂』
 『庶物類纂』は、加賀金沢藩の儒医・稲生若水、その弟子丹羽正伯らが編纂した博物書。延享四年(1747)、八代将軍徳川吉宗の命を受け丹羽正伯らによって完成。『庶物類纂』の巻之三十八木属には、「椿」が記されている。ただし、「椿」は「一名 猪椿 香椿 虎目」などとあり、「ツバキ」ではなく「チャンチン」についての記述である。
 
★1750年代(寛延~宝暦年間) 『植物の種』のヤブツバキ
・『植物の種』
 1753年、スウェーデンの植物学者・カール・フォン・リンネは、『植物の種』(Species Plantarum)を出版した。リンネは、属名と種名による二命名法を確立した。植物を二つの名称で属と種小名の2つをラテン語で列記し、これに命名者の名前を記載するもので、ヤブツバキは「Camellia japonica Linnaeus」で、Camelliaが属名、japonicaが種小名、Linnaeus(Linneのラテン語名)が命名者名となる。
  なお、「Camellia」はゲオルク・ジョセフ・カメルに由来するらしい。ゲオルク・ジョセフ・カメル(Georg Joseph Kamel)は、From Wikipedia, the free encyclopedia・ウィキペディア(無料の百科事典)によると「ゲオルク・ジョセフ・カメル(1661年4月21日にチェコモラヴィア地方ブルノに生まれ、1706年5月2日にフィリピンのマニラで亡くなった。)はカミルスという名でも知られており、イエズス会のフィリピンへの宣教師であり、植物学者でもあった。カメリア科(ツバキ科)という名称は彼の名誉を表してカール・フォン・リンネによってつけられた。
 彼はモラヴィア生まれで、1682年にイエズス会修道士になった。彼はまず1683年にマリアナに派遣され、それから1688年にフィリピンに移った。カメルはフィリピンで初めて、マニラで薬学を創めて、貧しい人々に無料で医薬品を供給した。
  彼の植物採集の結果は、その多くがすでにマニラにある中国庭園で育てられていた植物で、その多くはロンドンの最先端の英国植物学者であるジョン・レイと薬用植物学者のジェームズ・ぺティヴァーに送られていたのだが、その結果は彼の著書"Herbs and Medicinal Plants in the island of Luzon,Philippines" (『フィリピン・ルソン島のハーブと薬用植物』)にまとめられた。
  彼の最初の植物学の成果の積み荷は海賊の手で沈められて、失われた。東洋の植物に関するこの仕事の一部は、ジョン・レイの"Historia plantarum" 『植物誌』第三部 'species hactenus editas insuper multas noviter inventas & descriptas complectens' (1703) と、"The Philosophical Transactions of the Royal Society" 『フィロソフィカル ・ トランザクションズ』(王立協会発行)において、96ページにわたる補遺として発行された。」とある。
  さて、ここで気になるのは、ツバキの属名が「Camellia」に由来するということ。Georg Joseph Kamelとどのような接点があるか、よくわからない。
 
★1760年代(宝暦~明和年間) 『花彙』の宝珠茶
・『花彙』
 宝暦十三年(1763)、小野蘭山(本草学者)によって『花彙』が刊行される。ツバキは、草部四巻木部四巻の中に「宝珠茶(ホウジュチャ)」(イセツバキ)が紹介されている。
イメージ 1「賓珠茶(ホウジュチャ) イセツバキ 典籍便覧
曼陀羅樹高キモノハ丈ニ過グ枝條交加シテ灰白色葉九里香ニ類シテ兩頭光リテ硬厚靣深緑ニシテ背ハ則チ淺シ共ニ光滑ナリ冬ク經テ凋落セズソノ花巌冬ニアリ紅白淺深単重数十種アリソノ千瓣ニシテ當中ノ数葉放開セズ大筆頭ニ類スルモノヲ賓珠茶ト名ク」とある。
  図は、典籍便覧の賓珠茶。
  このツバキ、現代ではあまり注目されないが、江戸時代には関心が持たれていたよう。『大和本草批正』(小野蘭山)、『四季賞花集』(鷹取遜庵)に掲載されている。
   イセツバキ、『樹木図説』には以下のように記されている。
「ボクハン,レンゲツバキ(瓶更備考)タマテバコ(四季賞花賞)卜伴,石榴茶
常緑灌木,樹性弱く,伸長力不良,細枝は粗生,葉は細長く,長10cm,巾3cm,厚質,尖頭,濃緑。花は四月,一般に唐子咲というも一重に近い八重咲,5弁,外弁は濃紅,雄蕊全部が花弁化して白色に盛上る,径60~100mm,よく結実す,挿木発根容易,入唐の僧が中国より持返り伊勢国ト伴寺に植えたので当時の株が残つているという,星入ト伴は外弁に小白星を1弁毎に1~2点生ずるを異とす。大和本草批正には『石榴茶,下に大葩五弁あり,上に小葩数片あり,俗に伊勢ツバキといふ』とあり,四季賞花集には『世上に伊勢ツバキといひ,玉手箱と云ものは千葉の花にて其中心簇をなしいつまでも開つくさず,形玉に似たり,花は白あり,赤あり,又赤白相まぢりもあり,これ格古論に出たる宝珠茶といふもの也』とある,松村博士は植物名彙で本草の宝珠茶をタマシマツバキにあてている。」と記されている。
  なお、三重県多気多気町にある丹生神社の本殿脇には、「イセツバキ」の原木と言い伝えられているツバキがある。解説板によると、文化財町指定1号「伊勢椿の原木」とある。