茶庭 20 小堀遠州その5

茶庭 20 小堀遠州その5
小堀遠州の作意
  『小堀遠州の作事』から遠州作と認められる庭園は、10を越える程度だろうか。少ないように感じられるのは、絵画や陶器などの美術作品と比べるからであろう。構築物で、作者が明らかになっているものは、もともと意外に少ない。たとえば、金閣寺(正確には舎利殿)を造営したのは足利義満だが、では設計を担当したのは誰だろう。初層は寝殿造風、二層は書院造風、三層は禅宗様の仏殿風という異なる様式の構成。二層と三層だけに金箔を施しているが、初層は控えるという凝りよう、これなどは誰かが意図したことに違いない。このような素晴らしい建物なのに、設計者がいないということがあるだろうか、そんなことはあり得ないのでは。当時は、個々の担当者がいて、その並々ならぬ技量を知る人がたくさんいたのだろうが、その人物については後世に伝わらなかった。と言うより、設計者の名前を残すことにあまり関心を持つ人がいなかったということだろう。
  イメージ 2ところが、庭については異なり、関心の持ちようが違っている。たとえば、金閣寺より以前につくられたとされる西芳寺の庭園の作者まで推理したがる。庭は、建物と異なり、時間が経つにつれて少しずつ変化する。特に維持管理の状況によって全く雰囲気が異なってしまう。その典型が西芳寺で、当初はサクラやカエデのある明るい庭であったのが、現在は苔むす庭となっている。それでも、人々は作庭者に関心をもって訪れている。私が四十年程前に西芳寺を訪れた時のことだが、無窓疎石の作であるという解説を聞きながら、池や中島の苔を観賞する人は多いものの、境内北側の枯山水石組みに眼を向ける人はごくわずかしかいなかった。無窓疎石の時代の庭を見るのなら、改変された池周辺の苔を見ても仕方がないのに、不可解なことであるが、それでも多くの人は庭園に作者を求めるものらしい。
  日本の庭園で史跡または名勝に国指定されたものは、百八十程ある(2007年現在)。その中で真偽はともかく、作庭者の伝わる庭園(明治以後、明らかに違うものを除く)は、西芳寺庭園、天竜寺庭園、南湖公園大徳寺方丈庭園、真珠庵庭園、大仙院書院庭園、孤篷庵庭園、龍安寺方丈庭園、常永寺庭園、三宝院庭園、高台寺庭園、旧亀石坊庭園、菅田庵、萬福寺、医光寺庭園、那谷寺庫裏庭園、妙心寺庭園、東海庵庭園、退蔵院庭園、柴田氏庭園、青岸寺庭園、柴屋寺庭園、清見寺庭園、龍潭寺庭園、渉成園貞観園、縮景園、金地院庭園、恵林寺南禅寺方丈庭園、名古屋城二ノ丸庭園、園通寺庭園、曼殊院、大仙院庭園、不審庵庭園、今日庵庭園、燕庵庭園、旧大乗院庭園、聚光院庭園、永保寺庭園程度であろう。
  これらの庭園で、作庭当時の形態が今も存続しいる庭園は、ほとんどないと言っても過言ではないだろう。庭は建築物より容易に改変される。たとえば、茶書で有名な『松屋会記』を記した一人の松屋久好、彼は天正十五年から慶長初期までの10年程で、茶室と路地を5回も変えたとされている。それは、『松屋茶湯秘抄』(松屋元亮)に図面があるからわかるもので、他の路地ではたとえ変わっても気がつかなかったり、路地の変化に関心がなかったりしたのではなかろうか。路地の変化は、久好の場合でも建物についてはかなり正確な形がわかるものの、飛石などが省略されたり、不明な部分がある。
  容易に変えられる路地だけでなく、大がかりな工事をする庭園も、長い間には改変している。たとえば、三宝院の庭園、慶長十五年(1610)十一月八日の『義演准后日記』には「三宝院完成す」とあるが、その後も何度となく、通常管理より手が入れられ、庭の形が変えられていったことがわかる。また、『松平大和守日記』の寛文六年(1666)三月十四日に、白河藩「二之丸庭大形出来寄之」と記されている。だがその後も、「二之丸ニ白大石直す」などとあり、庭は完成した直後からすでに、手が加えられている。さらに、金地院方丈庭園も23年後の承応四年(1655)に庭石が据えられている。庭は、当初のままで残っている方がむしろ少ないと考えた方が良いだろう。そうなると、庭園の設計者を問うこと自体、あまり意味がないことかもしれない。
  香川県にある栗林公園は、讃岐領主生駒高俊によって1625年頃から南湖一帯の造営が始まった。その後、松平頼重が藩主となり1642年頃から約100年にわたって整備が続けられた。小石川後楽園にしても、光圀によって中国風の趣向が取り入れられ、五代将軍綱吉の生母・桂昌院の来訪で改変され、また徳川宗堯の代にも変えられたことがわかっている。その上、地震や火災など災害からの復旧、樹木の枯死など、当初の庭をそのままの形で継続させることがいかに困難かが想像できる。また、改変時には、当時の流行に合わせて植物や石を導入していることが、日記に記されている。
  それでもなお遠州については、設計者の意図や構想は残され、遠州ならではのデザインを認めることができると思われている。『小堀遠州の作事』によれば、遠州は「はじめから職人的な庭園に趣味をもった人ではなかった」と、植栽や石組(滝組)から発想する思考形態ではなかったことが書かれている。「庭園そのものの中にも建築的手法が充分に取入れるべき」として「普通ならば自然の石組をつなぐのにも部分的に切石を挿人したりした」という。また、「従来の日本式庭園の中で全然採用されなかった整形式花壇を大量且広而積に採用しはじめたことである」「ここに完全な整形式庭園の実現を見たのである」とある。おそらくこの指摘は的確であろう、遠州の庭を見る時の注意すべきポイントである。イメージ 1                                                   cibaさん提供
  次に借景、「庭園に於ける借景法というものも、小堀遠州によってはっきりと意識され、その形式が完成されたと見てよいのかも知れない」と、この点については断定を避けている。借景については、意図している場合と、結果として借景になる場合があり、確かに判断は難しい。たとえば、比叡山の借景で有名な円通寺、作庭当時は藪深い中にあり、スギやヒノキの木立を通して見るような作意はなかった。また、施主が借景を望んでいたか、という点についても思いを馳せる必要がある。庭に対してどのような景色を望んでいるかという、空間への関心、空間認識という次元についても考える必要がある。
  空間認識については、少々飛躍して判りにくいかもしれないが、子供と大人では、奈良時代と江戸時代では違うのである。古来より日本人がどのような空間に関心を寄せてきたかは、『日本建築の空間』(井上充夫)を参照されたい。景色を見ながら庭を歩くという行為は、回遊式庭園ができてからのことである。それまでは、書院の庭園のように室内から観賞することが主流であった。つまり、借景を観賞するという行為が一般的になったのが、遠州の時代になってからだということを考えると、必ずしも遠州のオリジナルとは言えないかもしれない。
  その次が、「鶴亀の庭」である。「遠州が将軍関係の公儀作事で行った庭園意匠に、形式化したものがあることを見落してはならぬ。それはいわゆる『御成の庭』すなわち鶴島・亀島を配したり、鶴石・亀石を立てるなど、将軍家の位牌所東照宮、または御成御殿の前庭として、将軍家の吉慶を象徴する意味のものの中にある」。この庭は、「当時将軍側近大名間にこのような流行を見たものらしい」とある。そして、「鶴亀庭の意匠だけは創作第一号に止めておきたかったような気がする」と締めくくっている。私もこの意見に同感ではあるが、宮使えの遠州とすれば、施主の要望を先回りして反映させるのが遠州の仕事でもあったはず。流行のスタイルは、時代の要請として、良きに付け悪しきに付け浸透するものである。