江戸時代の椿 その10

江戸時代の椿  その10
★1770年代(明和~安永年間)  『宴遊日記』の海石榴・つはき、ドレスデンの椿
 ・安永二年(1773~79)『宴遊日記』
  『宴遊日記』は、柳沢吉保の孫・信鴻が六義園で、安永二年(1773)から天明五年(1785)までを過ごした記録である。日記は、天候の記載に始まり、朝からの行動を詳細に記録したもので、交遊、園遊、演劇、行楽などに関する文章が綴られている。園遊(ガーデニング)の記述中には、ツバキを含む記述がいくつもあり、当時のツバキの種類や使い方などを知る上で参考になる。
  この日記では、ツバキを「椿」とは書かずに「海石榴」「つはき」と記している。『庶物類纂』や『花彙』でも、「椿」はツバキを指していない。そうしてみると、1740~80年頃は、ツバキは「海石榴」の使用が優勢だったのだろう。
  また、信鴻は、安永三年までツバキに強い関心を持ち、名前を詳細に記していた。その名は、『花壇地錦抄』(赤字で示されたもの)に記されたものが少々あるだけで、他は、新しい品種なのか呼び名が変わっただけなのか判断つかない。

・安永二年(1773)の日記
正月四日  海石榴鉢うへニツ・白梅一ツを賜ふ
廿五日  海石榴四株(春宵・唐錦・関守・迦陵頻・岩根・松嶋)を貰ふ
二月六日  花やより海石榴三鉢(濡ふれ・両雨紅・胡蝶仇介)を求む
廿七日  海石榴鉢置を進む
三月八日  つはき三鉢を求む(羅氈・百官・星くるま)
九日  六本木よりつはき二鉢被下(繻子・かさね・わひすけ)
  十七日  桜・つはき・桃華、庭の花のよしにて貰ふ
十九日  つはき貰ふ
廿三日  六本木より海石榴たて花賜ふ
廿四日  つはき鉢植貰ふ○つはき二鉢を求む(緋車  出羽大輪)
廿五日 唐錦つはき鉢置貰ふ○さゝれ浪・乱拍子、つはき二鉢を貰ふ
廿九日 羅氈つはき、駒込へつかはす
三十日  海石榴鉢置貰ふ(名寄)
閏月十三日  針(鉢)つはき、花菖蒲貰
十四日 海石榴鉢置を攦(手偏ではなく木偏)に貰ふ
五月十五日  蟻の付たる海石榴を殖かへ蟻を殺す
五月廿九日  いさ葉玉つはき・いさ葉鉄仙鉢置貰ふ
六月 三日  海石榴の鉢の台二つ倒れたるを知らす
九月廿三日  山茶花貰ふ
十二月廿七日  底白沖の波・和歌浦・藻塩・海石榴を求む
廿九日  海石榴六鉢を買ふ(豊後・青白・眉間尺・丹鳥・釜山海・乙女)
・安永三年(1774)の日記
正月五日  朝雰海石榴・・・貰ふ
十日  海石榴八ッを求む(春日野・鳥の子・白鴫・南京絞・もみこし・限り・玉取・塩かま)
十四日  日前柾鉢置二株・九年母一鉢権兵衛かたへ遣し、今日礒柏・海石榴と取替へ来
廿二日  酒中花・海石榴を買ふ○海石榴二ツ遣し
二月朔日  海石榴花桶貰ふ
十三日  海石榴四鉢求む(八重白雲・八代邂逅・百千鳥)
十四日  花見車・須弥山海石榴二鉢を求む
廿七日  海石榴鉢・花蒲公一籠、お隆貰ふ
三十日  預たる海石榴三鉢来る
三月九日  蝦夷錦海石榴(鉢殖)貰ふ○本多絞海石榴鉢殖貰ふ
    廿一日  鉢殖つはき、名のしれさるに権兵衛よひ名を訪ぬ○沖の浪つはき鉢うへ貰ふ
・安永四年(1775)の日記
正月十五日  海石榴をへや庭へさす
二月二日  庭へ海石榴をうつす
    廿三日  花壇出来、海石榴を殖る
三月十四日  白桃・海石榴折花貰ひ、珠成生ける
    十七日  海石榴四本預ける
廿二日  海石榴折花貰ふ
四月廿三日  海石榴の札を書改む
五月廿一日  海石榴穂をさす
七月五日  海石榴茜を花壇へ植
・安永五年(1776)の日記
五月五日  花埴の海石榴を作り土堤へ差す     
    十四日  前年預げし海石榴三株庭へ移す
    十五日  絞海石榴兼而白堂へ約束ゆへ恵山まて遣ハす    
十一月十六日  つばき梅の根へ魚腸を埋む
      廿七日  つはき・枇杷・梅・杏樹貰ひ奥庭へ植る
・安永六年(1777)の日記
一月十九日  海石榴華貰ふ
    廿一日  庭園海石榴折枝数種貰ふ
三月廿九日  海石榴さし樹を奥庭へ植る   
四月廿七日  八過海石榴花壇にて又二尺余の虵を多治衛門とらへ殺す
・安永七年(1778)の日記
三月十七日  花壇のつはき見せる
六月六日  つはきの芽をさす
    九日  杜鵠花・海石榴等の差芽を取
・安永八年(1779)の日記
一月廿九日  つはき二株貰ふ
三月廿九日  海石榴花壇の縁を作らしむ
五月四日  海石榴の芽を取差す   
六月三日  つはき差芽数十種貰ひ庭へ差す    
八月十六日  つはきの花檀を植直す     
九月廿四日  朝鮮つはきの花貰ふ 
  
・1779年『寛政三年八月改めの御薬草木書留』のツバキ
 小石川薬園を訪れた複数の人物に関する記録が残っている。安永八(一七七九)年五月に十代将軍家治がはじめてこの薬園を訪ね、翌九年にも板橋方面への鷹狩の途中に立ち寄っている。寛政の改革に手をつけた十一代将軍家斉は、寛政四(一七九二)年に薬園に臨まれた。このとき岡田利左衛門からサンシュユ三本、紅梅三本、白梅四本、緋桃五本、トサミズキ五本、紅白しぼりのツバキ三〇余本が、また芥川小野寺からは、マンサク三本、江南紅梅三本、星下り梅二本、レンギョウ九本、紅白しぼりのツバキ三〇本が献上されている。
 
ドレスデンの椿
  1775年(安永四年)8月13日、スウェーデンの植物学者ツュンベリーが日本を訪れ、1776年12月3日に帰国している。ツュンベリーが持ち帰った植物の中にツバキがあった。その4本のうちの1本とされるツバキが、今もドイツのドレスデンにあり、樹齢250年ともいわれる大木になっている。