茶庭 21 小堀遠州その6
小堀遠州の茶会の詳細についてまとめたものに、『小堀遠州茶会記集成』(小掘宗慶編集)がある。この本は、「二十三本の小堀遠州茶会記中より、重複を省いた三百九十二会の茶会記を日付ごとに編年体に編集した」ものである。これらの茶会記には、当然、数多くの茶花が記されており、遠州の好む花を知る手がかりになるのではないかと考えた。
これから紹介する茶花は、慶長年間の2回(以後の茶会と25年ほど離れているため)、及び年月日の不詳な茶会を除いた、寛永二年(1625)から正保三年(1646)までに行われた340回の茶会を対象としている。なお、必ずしもそのすべての茶会記に、茶花が記されているわけではない。茶花が掲載されている茶会は、230回ある。数多くの茶会が催されたわりには、茶花が飾られた茶会が少ないと感じられる。その理由は、寛永六年から十二年にかけて、7年間の茶会に、何故か茶花が記されていないからである。7年もの間、茶会で花を一度も使わなかったということは、まずあり得ない。不思議である。それは、茶会記を実質的に考察した熊倉功夫が述べているように、茶会記で重要なのは道具飾りで、それを記すための記録だったからだろう。
熊倉は、小堀遠州の茶会記について「遠州の周辺の人々が書き残した茶会記が、だれかによって集められ一冊に編集されて現存の茶会記が成立したと見てよい。遠州あるいは周辺の人が書いたであろう元の姿をとどめる茶会記は、ごく少ないといえる。しかしその編集は、遠州の時代をさほど下らない時期に行われたと思われる。というのはいくつかのグループの茶会記を集めて一冊とした本が、そのまとめられた姿でいくつも写されているからである。百会ほどの数にまとめられた遠州の会記は手頃な茶会や道具の参考書としておそらく流布したのであろう。
遠州の茶会記を求めた人々にとって道具飾りこそ興味の的で、それが何年に開かれた会かという歴史的興味は低かったであろう。多くの茶会記の年次が不明瞭なこともその辺に理由があった。極端な場合、「順不同」として年次、月日をランダムに配列する茶会記があって、不自由はなかったのである。」と述べている。
つまり、茶会において、「花入」は道具飾りとして関心を集めたものの、活けられた花はさほど注目されなかったということだろう。このように、茶会記には様々な疑問のある茶会がいくつも登場する。茶会記から、茶花についてどのようなことがわかるだろうか。まず、茶会数(サンプル数)が230程あることから、統計学的な検討に堪えうるという事実である。茶花の種類や使用回数など、『小堀遠州茶会記集成』から得られたものが、他の茶会記資料との適合度や分散の検定が可能である。次に、茶花の出現頻度から、数量的な比較、傾向を示すことができる。また、茶花の使用傾向から矛盾や誤りも推測できること。したがって、小堀遠州の茶花について、ある程度信頼できる傾向が得られるとした。
これから紹介する茶花は、慶長年間の2回(以後の茶会と25年ほど離れているため)、及び年月日の不詳な茶会を除いた、寛永二年(1625)から正保三年(1646)までに行われた340回の茶会を対象としている。なお、必ずしもそのすべての茶会記に、茶花が記されているわけではない。茶花が掲載されている茶会は、230回ある。数多くの茶会が催されたわりには、茶花が飾られた茶会が少ないと感じられる。その理由は、寛永六年から十二年にかけて、7年間の茶会に、何故か茶花が記されていないからである。7年もの間、茶会で花を一度も使わなかったということは、まずあり得ない。不思議である。それは、茶会記を実質的に考察した熊倉功夫が述べているように、茶会記で重要なのは道具飾りで、それを記すための記録だったからだろう。
熊倉は、小堀遠州の茶会記について「遠州の周辺の人々が書き残した茶会記が、だれかによって集められ一冊に編集されて現存の茶会記が成立したと見てよい。遠州あるいは周辺の人が書いたであろう元の姿をとどめる茶会記は、ごく少ないといえる。しかしその編集は、遠州の時代をさほど下らない時期に行われたと思われる。というのはいくつかのグループの茶会記を集めて一冊とした本が、そのまとめられた姿でいくつも写されているからである。百会ほどの数にまとめられた遠州の会記は手頃な茶会や道具の参考書としておそらく流布したのであろう。
遠州の茶会記を求めた人々にとって道具飾りこそ興味の的で、それが何年に開かれた会かという歴史的興味は低かったであろう。多くの茶会記の年次が不明瞭なこともその辺に理由があった。極端な場合、「順不同」として年次、月日をランダムに配列する茶会記があって、不自由はなかったのである。」と述べている。
つまり、茶会において、「花入」は道具飾りとして関心を集めたものの、活けられた花はさほど注目されなかったということだろう。このように、茶会記には様々な疑問のある茶会がいくつも登場する。茶会記から、茶花についてどのようなことがわかるだろうか。まず、茶会数(サンプル数)が230程あることから、統計学的な検討に堪えうるという事実である。茶花の種類や使用回数など、『小堀遠州茶会記集成』から得られたものが、他の茶会記資料との適合度や分散の検定が可能である。次に、茶花の出現頻度から、数量的な比較、傾向を示すことができる。また、茶花の使用傾向から矛盾や誤りも推測できること。したがって、小堀遠州の茶花について、ある程度信頼できる傾向が得られるとした。
・茶花の種類
使用回数の多い茶花の使用時期を示すと、スイセンは十月から翌年の四月まで使用されている。なお、当時の暦は旧暦であるから、現在の十一月から五月までの7ケ月間となる。ウメは、九月から翌年の三月までの7ケ月である。ツバキは、九月から翌年の四月までの8ケ月と最も長いが、その割には使用数が少ない。サザンカは、八月から十一月までと、開花期間よりも短い。
次に、各月ごとの茶花を示すと、開花する花が多い月には種類が多く、花の少ない時期にはおのずと種類は限定されている。(漢字や平仮名で表記しているものは、不明な点がある花。)
1月・・スイセン・ウメ・ツバキ・フクジュソウ
2月・・スイセン・ウメ・ツバキ・フクジュソウ・ボケ・キンセンカ・コブシ
3月・・ウメ・ツバキ・ボケ・キンセンカ・コブシ・ボタン・キスゲ・ユリ・ケシ・黄梅・ふし
4月・・スイセン・ツバキ・コウホネ・ボタン・ケシ・ヤマブキ・フジ・アヤメ・カキツバタ
5月・・ハス・コウホネ・ユリ・カンゾウ・アオイ・アジサイ
6月・・ハス・カンゾウ・オモダカ・蘭・赤むくげ・白ふし・黒ふし
7月・・ハス・コウホネ・アサガオ・サワギキョウ
8月・・サザンカ・コウホネ・アサガオ・サワギキョウ・キキョウ・蘭・杜若
9月・・ウメ・ツバキ・サザンカ・フクジュソウ・キンセンカ・キク・クチナシ・桜・水草
10月・・スイセン・ウメ・ツバキ・キク・キンセンカ
11月・・スイセン・ウメ・ツバキ・サザンカ・キンセンカ・キク・フクジュソウ・牡丹
12月・・スイセン・ウメ・ツバキ
以上の茶花を使用頻度で示すと、右図のようになる。
・最も使用回数の多いスイセンは、大半が「水仙」と表記され、他に「水せん」「水山」「花水仙」の文字が使われている。色は、大半が白いニホンスイセンと思われるが、花期の長さから考えると、一種類ではないようだ。スイセンは、花が小さく自己主張しないので、多様な花入れに対応したと思われる。
・ウメは、大半が「梅」と表記され、他に「紅梅」が4回でてくる。したがって、花の色は白が多かったものと推測される。スイセンはそれ一種のみで使用される方が多かったのに対し、梅は他の花(スイセンが11回、サザンカが9回、ツバキが6回など)との組み合わせが多い。
・ツバキは、単独で使用されたのは3回で、大半は他の花と共に活けられている。表記は、「椿」の他に「つはき」「椿三色」「白玉 赤椿」「赤キ椿」「つはキ」「小椿」などがある。花色は、おそらく白と赤が多かったと思われるが、よくわからない。また、ツバキの種類もヤブツバキだけではなく、園芸品種を含んでいるようだが判断できない。
・サザンカは「さゝむ花」と表記されるものが大半を占め、「山茶花」は1回のみである。八月から使われているように、かなり早い時期に開花する種類らしい。それでいて、十二月には一回も使用されていないのは不思議である。また、サザンカを使用した茶会では、大半が「墨跡取而香地口之花入」を使い、寛永二年に集中(8割以上)している。偏りが大きいので、「さゝむ花」はツバキではないかとも考えたが、他の茶会で九月にツバキを使用した例がないこと、さらに開花時期からしても、やはりこれはサザンカだろう。
・ハスは「蓮」と表記され、サザンカほどではないが、正保三年に7割が集中している。花は大きく見栄えがすることから、他の花と共に使用した例は「蘭」との一回だけである。また、「白蓮」「薄色蓮」「千重ノ蓮」との表記があることから、花の形や色も複数あったものと思われるが、よくはわからない。
・コウホネは、「川骨」または「かうほね」と表記されている。コウホネは、カキツバタと共に使用した例もあるが、他は単独である。
・ボケは、「ほけ」と表記され、寛永十六年に集中している。単独で使用されたのは2回で、あとの9回はウメ、フクジュソウ、ツバキなどとともに活けられている。
・フクジュソウは、「ふくつく草」「ふくつく」と表記されている。単独の使用は3回である。
・キクは9回しか使われていないが、表記は「菊」「きく」「寒菊」「はま菊」「咲分ノきく」と多様である。いろいろな種類のキクが使われたものと思われる。
・カキツバタは9回使われている。表記は「杜若」3回、「かきつはた」2回、「白かきつはた」2回、「若杜」1回である。気になるのは八月の使用である。花が咲かないとは言いきれないが、通常八月は開花期ではない。葉を活けたのかもしれない。
・ボタンは「牡丹」と表記され、5回ある。単独での使用は2回、花の色は不明。なお、寛永四年(1627年)十一月十七日に牡丹を使用したとあるが、この季節ならフユボタンのはず。ところが、『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)の初見リストでは、フユボタンの初見を36年後の1663年としている。もしかすると、茶会記の方が正しいかもしれないが、フユボタンの来歴がハッキリしていないため、何とも言えない。
・「くわん草」と表記されるものが5回ある。カンゾウの仲間だしても、ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ゼテイカ(ニッコウキスゲ)などがあり、どれを指しているかわからない。なお、「キすき」と表記されるものが一回あり、それには「黄すけ」との貼紙があることから、これも含めると6回になる。
・「蘭」と表記されるものは5回ある。使われたのは六月と八月なので、種類が異なるのではと思われる。また、どのような蘭であるかわからない。
・「朝かほ」が3回と「朝顔」が1回出てくる。これらがヒルガオ科のアサガオである可能性は高いものの、単独ではなくサザンカと共に活けていることから断定は難しい。
・キンセンカは、「きんせん」「金仙花」と2回ずつ表記され4回ある。
・クチナシは、「くちなし」「口なし」と表記され4回ある。
使用回数の多い茶花の使用時期を示すと、スイセンは十月から翌年の四月まで使用されている。なお、当時の暦は旧暦であるから、現在の十一月から五月までの7ケ月間となる。ウメは、九月から翌年の三月までの7ケ月である。ツバキは、九月から翌年の四月までの8ケ月と最も長いが、その割には使用数が少ない。サザンカは、八月から十一月までと、開花期間よりも短い。
次に、各月ごとの茶花を示すと、開花する花が多い月には種類が多く、花の少ない時期にはおのずと種類は限定されている。(漢字や平仮名で表記しているものは、不明な点がある花。)
1月・・スイセン・ウメ・ツバキ・フクジュソウ
2月・・スイセン・ウメ・ツバキ・フクジュソウ・ボケ・キンセンカ・コブシ
3月・・ウメ・ツバキ・ボケ・キンセンカ・コブシ・ボタン・キスゲ・ユリ・ケシ・黄梅・ふし
4月・・スイセン・ツバキ・コウホネ・ボタン・ケシ・ヤマブキ・フジ・アヤメ・カキツバタ
5月・・ハス・コウホネ・ユリ・カンゾウ・アオイ・アジサイ
6月・・ハス・カンゾウ・オモダカ・蘭・赤むくげ・白ふし・黒ふし
7月・・ハス・コウホネ・アサガオ・サワギキョウ
8月・・サザンカ・コウホネ・アサガオ・サワギキョウ・キキョウ・蘭・杜若
9月・・ウメ・ツバキ・サザンカ・フクジュソウ・キンセンカ・キク・クチナシ・桜・水草
10月・・スイセン・ウメ・ツバキ・キク・キンセンカ
11月・・スイセン・ウメ・ツバキ・サザンカ・キンセンカ・キク・フクジュソウ・牡丹
12月・・スイセン・ウメ・ツバキ
以上の茶花を使用頻度で示すと、右図のようになる。
・最も使用回数の多いスイセンは、大半が「水仙」と表記され、他に「水せん」「水山」「花水仙」の文字が使われている。色は、大半が白いニホンスイセンと思われるが、花期の長さから考えると、一種類ではないようだ。スイセンは、花が小さく自己主張しないので、多様な花入れに対応したと思われる。
・ウメは、大半が「梅」と表記され、他に「紅梅」が4回でてくる。したがって、花の色は白が多かったものと推測される。スイセンはそれ一種のみで使用される方が多かったのに対し、梅は他の花(スイセンが11回、サザンカが9回、ツバキが6回など)との組み合わせが多い。
・ツバキは、単独で使用されたのは3回で、大半は他の花と共に活けられている。表記は、「椿」の他に「つはき」「椿三色」「白玉 赤椿」「赤キ椿」「つはキ」「小椿」などがある。花色は、おそらく白と赤が多かったと思われるが、よくわからない。また、ツバキの種類もヤブツバキだけではなく、園芸品種を含んでいるようだが判断できない。
・サザンカは「さゝむ花」と表記されるものが大半を占め、「山茶花」は1回のみである。八月から使われているように、かなり早い時期に開花する種類らしい。それでいて、十二月には一回も使用されていないのは不思議である。また、サザンカを使用した茶会では、大半が「墨跡取而香地口之花入」を使い、寛永二年に集中(8割以上)している。偏りが大きいので、「さゝむ花」はツバキではないかとも考えたが、他の茶会で九月にツバキを使用した例がないこと、さらに開花時期からしても、やはりこれはサザンカだろう。
・ハスは「蓮」と表記され、サザンカほどではないが、正保三年に7割が集中している。花は大きく見栄えがすることから、他の花と共に使用した例は「蘭」との一回だけである。また、「白蓮」「薄色蓮」「千重ノ蓮」との表記があることから、花の形や色も複数あったものと思われるが、よくはわからない。
・コウホネは、「川骨」または「かうほね」と表記されている。コウホネは、カキツバタと共に使用した例もあるが、他は単独である。
・ボケは、「ほけ」と表記され、寛永十六年に集中している。単独で使用されたのは2回で、あとの9回はウメ、フクジュソウ、ツバキなどとともに活けられている。
・フクジュソウは、「ふくつく草」「ふくつく」と表記されている。単独の使用は3回である。
・キクは9回しか使われていないが、表記は「菊」「きく」「寒菊」「はま菊」「咲分ノきく」と多様である。いろいろな種類のキクが使われたものと思われる。
・カキツバタは9回使われている。表記は「杜若」3回、「かきつはた」2回、「白かきつはた」2回、「若杜」1回である。気になるのは八月の使用である。花が咲かないとは言いきれないが、通常八月は開花期ではない。葉を活けたのかもしれない。
・ボタンは「牡丹」と表記され、5回ある。単独での使用は2回、花の色は不明。なお、寛永四年(1627年)十一月十七日に牡丹を使用したとあるが、この季節ならフユボタンのはず。ところが、『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)の初見リストでは、フユボタンの初見を36年後の1663年としている。もしかすると、茶会記の方が正しいかもしれないが、フユボタンの来歴がハッキリしていないため、何とも言えない。
・「くわん草」と表記されるものが5回ある。カンゾウの仲間だしても、ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ゼテイカ(ニッコウキスゲ)などがあり、どれを指しているかわからない。なお、「キすき」と表記されるものが一回あり、それには「黄すけ」との貼紙があることから、これも含めると6回になる。
・「蘭」と表記されるものは5回ある。使われたのは六月と八月なので、種類が異なるのではと思われる。また、どのような蘭であるかわからない。
・「朝かほ」が3回と「朝顔」が1回出てくる。これらがヒルガオ科のアサガオである可能性は高いものの、単独ではなくサザンカと共に活けていることから断定は難しい。
・キンセンカは、「きんせん」「金仙花」と2回ずつ表記され4回ある。
・クチナシは、「くちなし」「口なし」と表記され4回ある。
・ムクゲは3回、「槿」2回、「赤むくげ」と表記されている。
・キキョウ、ケシ、コブシ、ムクゲ、モモ、ヤマブキ、ユリが2回使用、その他の植物は1回となっている。
・フジは、「藤」と表記されるものが一回だけのようだ。他に「白ふし」「黒ふし」もあるが、六月(旧暦)にフジは咲いていないので、他の花だと思われる。なお、「白ふし」には「赤むくげ」との貼紙があるようだ。次に、注として、「黒ふし」は「紫藤のことか」とある。しかし、六月の開花は不自然。「黒ふし」が「黒節」であれば「フシグロセンノウ」の方が可能性が高い。
・「黄梅」という表記があり、これは「オウバイ(モクセイ科ソケイ属のつる性低木)」と思われるが、『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)の初見リストには、1666年(寛文六年)にオウバイとある。「黄梅」の記された茶会は1641年(寛永十八年)だから、初見リストの25年も前のことになる。そのため、どちらが正しいかは判断できない。
・「桜」については、カッコ書きで(梅)とある。どちらか迷うところであるが、ジュウガツザクラだと、九月(旧暦)でも咲いている可能性がある。
・フジは、「藤」と表記されるものが一回だけのようだ。他に「白ふし」「黒ふし」もあるが、六月(旧暦)にフジは咲いていないので、他の花だと思われる。なお、「白ふし」には「赤むくげ」との貼紙があるようだ。次に、注として、「黒ふし」は「紫藤のことか」とある。しかし、六月の開花は不自然。「黒ふし」が「黒節」であれば「フシグロセンノウ」の方が可能性が高い。
・「黄梅」という表記があり、これは「オウバイ(モクセイ科ソケイ属のつる性低木)」と思われるが、『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)の初見リストには、1666年(寛文六年)にオウバイとある。「黄梅」の記された茶会は1641年(寛永十八年)だから、初見リストの25年も前のことになる。そのため、どちらが正しいかは判断できない。
・「桜」については、カッコ書きで(梅)とある。どちらか迷うところであるが、ジュウガツザクラだと、九月(旧暦)でも咲いている可能性がある。