茶庭 25 小堀遠州 その10

茶庭 25 小堀遠州 その10
大徳寺方丈庭園の石組
  遠州の作か否かという論争は昔からいくつもあって、たぶん未来永劫結論は出ないだろう。何を根拠に遠州作と主張するのかという点から始めても、同じだろう。身も蓋もない言い方かもしれないが、そのほとんどは最初から結論があって、それに都合のよい資料だけを揃えて、論駁しているように思える。かなり公正な立場から研究した森蘊の『小堀遠州の作事』にしても、やはり若干の思い込みがあったのではなかろうか。
 森蘊は、『小堀遠州の作事』で、遠州が作庭したと伝えられる庭の真偽について丁寧に記述している。当時の遠州は公使として多忙を極めていた時期で、そうあちこちで作庭などできるはずはなかった。にもかかわらず、遠州作と伝えられる庭がいつくもあるのは、何かわけがるからだろうと考えている。その中でも特に気になる庭園について考察してみたい。
 まず、大徳寺方丈庭園について、森蘊は、庭園意匠において遠州の可能性があるものの、決め手となる記録がないと述べている。一方、中根金作は、『大徳寺方丈庭園の復元について』(造園雑誌)で、庭園意匠について否定的な見解を示している。中根金作の論文は、大徳寺方丈庭園での現場発掘をもとに述べられている。たとえば、森蘊は東庭を七五三風の石組だとしているが、中根は現場から埋もれていた石を発掘して、石組は五三三四二三の20箇であることを確認した。その石組の配列から見て、南庭と東庭は連続したものであると、中根は結論づけている。
  実際、復元過程で注目したいのは、平坦な庭の石組が一尺以上にもわたって埋まっていた事実である。「長い年月の間には、白砂が除々に庭園の低い部分である東側に移動し、また、日常の庭掃除に際しても地形の関係上西から東に掃く習慣となるため、この際にも少しづつ砂を移動して、石組を埋めていったものと考える。一方、石組の根締めとして最初植えられた、クチナシツツジなどは、次第に生長し、これを抑制するような手入れを怠つたために、長い年月の間に石組を被つてしまい勢い砂の堆積するのを助長して、その附近の石組を、一尺近くの深さまで理没する結果となつたのであろう。この石組の埋没以前の庭の模様は、今の寺院内の誰れもが知らないのであるから、余程以前から庭の形態が変りつゝあつたと思われる。」と中根は述べている。
  さらに中根は、明治十六(1883)年頃、日暮門の移築時に、門の大きさが二倍になり、石組の石が一つ外されたとも書いている。その石の所在がわからなくなっていると記している。また、昭和七年(1932)にも、便所を設置する関係で新しい石組と植栽がなされていることを付け加えている。『都林泉名勝図会』に描かれ、注目度が高く、大きな改修はなかったとされている大徳寺方丈庭園ですら、近年だけでも二回以上の改変が認められる。遠州作と伝えられてはいるが、江戸時代にはさほど注目されてもいなかったような、地方の庭園などは、作庭当初の配置のままに石組が存続し、同じ木が生育しているとは考えにくい。
 
頼久寺庭園の大刈込
  次に、頼久寺の庭園を見てみよう。森蘊は、「水口町大池寺については、水口城が遠州の作事に関係があるのと、次の項で記す備中国高梁市頼久寺の庭園と同様の、刈込物を主とした庭園であるところから、誰言うとなく遠州好と言いふらされたものであって、寺の記録としても、その子孫である遠江守政房との関係を示すもの以外、遠州との直接の交渉を明示するものは全くない。」と指摘している。
 それに対し、「重森三玲氏は、頼久寺は小根小屋書院普詰中の仮殿として遠州が居住していたときに、自ら築庭したと推定されたのである。また小根小屋の庭園の一部が、現在高梁中学校敷地内にあり、それを頼久寺所蔵元禄頃の古図と比較して見ると、元そのあたりには奥書院及び舟底書院があったと考えられる位置にあたり、両書院の跡は失われてもそれに附属する庭園遺跡だけが伝えているのは意義深い。そしてこの両庭園を遠州が慶長末年(十九年)に作ったもので、石組など金地院其他と比較して立証されると記しているのである。」と記している(『小堀遠州の作事』より引用)。さらに、同氏は頼久寺の庭園を遠州作とする理由に、サツキの大刈込を一つの根拠としている。
  森蘊は、遠州備中国に赴任したのは「大坂冬の陣勃発寸前のことであったから、戦乱に備えて城壁や濠渠の修理をすることはあり得るとしても、城中に書院を構え、城下の頼久寺に庭園まで築造するほどの余裕のある筈がない。」と断じている。翌年は夏の陣に当たり、もし作ったとすれば、その翌年か?、重森三玲は、『日本庭園史大系』で「ほぼ元和二年頃の作庭とすれば」と想定している。しかし、前年に古田織部切腹した事実を鑑み、「『智慮深潜』を売り物にした遠州」が作庭するはずがないとする、森蘊説の方がはるかに説得力ある。
 頼久寺の庭園は、デザイン化した大刈込が有名になり、遠州好みと思われている。だが、大胆な形で刈込をアピールするような植栽を、「ヘウゲモノ」の古田織部ならともかく、遠州が提案するだろうか。遠州の植栽は、家臣の村瀬左介が担当していた。遠州ならではという孤篷庵の二段刈込も、当初から存在したとすれば、村瀬の植栽感覚と技術も確かな裏方がいたから実現したものであろう。
  頼久寺のサツキの大刈込、これを形作るには、時間を要する。庭石と違って植えてすぐ刈込んでも様にならないからだ。また移植するサツキは、刈込んだ時点で樹高が五尺(1.51m)以上必要なので、3~5年程度の若い苗では無理だ。重森は、大刈込の形成に要する時間を20~30年と考えている。当初の苗でも、10年以上生育した木を必要とする。当時、大刈込に堪えうるような苗を前もって準備することができただろうか、大いに疑問である。
  そこで、サツキが植栽材料としていつ頃から量産されたかを考察するが。その前に、『茶庭(露地)における植栽の変遷に関する史的考察』(浅野二郎・他)から、茶庭の植栽樹種を見てみよう。「付表 利休・織部遠州の史料にみられる茶庭の植栽樹種」には、25種あげられている。灌木は、グミ・チャ・ハギなどの名はあるものの、ツツジやサツキの名はない。ということは、もちろん史料になくても、植えられたとしても不思議でないが、あまり積極的に使用する樹種ではなかったと考えるべきだろう。そこで、「サツキ」という名称の初見を調べる。『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)によれば、『毛吹草』(松江重頼編)が初見とされている。『毛吹草』の刊行は、遠州が関わったとされる元和二年(1616)から約30年後の正保二年(1645)、遠州が67才の時である。ツツジやサツキに人々の関心が高まり生産が増えるのは、遠州没後の元禄時代である。伊藤伊兵衛によって、ツツジ・サツキが流行し、花への関心が高まって以降のことである。もし、遠州がサツキの美しい大刈込を作っていたら、ツツジ・サツキブームはもっと前、つまり元禄以前に起きていた可能性もありうる。
  庭にツツジ・サツキが数多く植えられるようになったのは、かなり後になってからだと思われる。たとえば、延宝八年 (1680)刊『余景作り庭の図』(菱川師宣)の庭の絵には、大刈込どころかツツジらしい灌木すらよくわからない。元禄七年 (1697)刊の『古今茶道全書5』でも同様である。さらに、造園書として有名な『築山庭造伝・前編』(1735年)には、ツツジ類、それも刈り込まれたツツジ類が植えられているような絵はあまり見かけられない。ツツジ類の植栽が目につくのは『築山庭造伝・後編』(1828年)である。ツツジ類の剪定後の萌芽性に着目して、大刈込を行ったのは18世紀後半からではなかろうか。
  ところで、重森三玲は、『日本庭園史大系』で頼久寺の庭園を「桃山の庭」としている。だが、頼久寺の鶴島の石組は、構成や表現が巧緻と確かにモダンで素晴らしいが故に、「桃山の庭」にしてはこの時代特有の豪快な力強さが弱いような気がする。確かに、デザインされた刈込との組合せは、後世になって遠州好みを評価する「きれいさび」に通じるものはある。頼久寺の庭園は、遠州と全く無関係とは断言できないが、大刈込については、遠州が直接関与したとは思えない、というのが私の率直な意見である。
イメージ 1 その理由は、庭園内の植栽がいかにたやすく変化するかを目の当たりに見て知っているからである。よい例がある。左に示す写真は、遠州作か否かが問われている南禅寺方丈庭園である。2003年と2011年、高々10年も経っていないのにこの両写真を見比べると、植栽は明らかに違う。これは、たまたま同じような角度で写真を撮っているから証明できるが、自分の記憶だけでは確かな証拠にならないものの、植栽の変わっている庭がまだまだある。
  遠州作と伝えられている庭園の真偽がどれも不確定な中で、「遠州好み」の形態はこれだと、はっきり示すことはいささか乱暴な話だ。まずは、森蘊の『小堀遠州の作事』をもとに、その真偽を検証することから始めなければならないだろう。この論争が終結しなければ、庭園の「遠州好み」にも言及できないと思う。地道な作業になるが、現存する庭の情報を丹念に調べることによって、少しずつ解明していくことが先決である。