江戸時代の椿 その15

江戸時代の椿  その15
★1820年代(文政年間) 『シーボルト 江戸参府紀行』『江戸名所花暦』『草木奇品家雅見』『草木錦葉集』のツバキ
・『シーボルト 江戸参府紀行』
  ドイツ人医師・博物学者であるシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)は、文政六年(1823)オランダ商館付き医師として長崎に着任した。3年後の1826年、彼はオランダ商館長の江戸参府に随行し、道中での動植物や地理などを記した『シーボルト 江戸参府紀行』(斎藤信訳)を著した。その中から、ツバキに関する記述を示す。
  最初の記述は、二月十五日、出島でのもので「四方の野山はまだ冬の装いであった。ただいくらかの花をつけたスモモとビワとナタネを敷きつめた次第に色づいている畑は、近づきつつある早春を告げていた。常緑のアラガシ・イヌグス・モチノキ・ノツバキ・葉の散った藪から突き出たダイダイの木は、まだ果実をつけていたし、数本の孤立したシュロの木は温暖な、もっと南の地方の冬の姿を示していた。」
  二月二十日「日本の四季の植物群」として、「日本列島では、わが国と同様に植物は四季を一巡し、景色はそのつど季節にふさわしい装いをするが、季節の移り変りは日本では、夏から秋と秋から冬への変化が、冬から春のかけての変化ほどきびしく現れないから、北方の気候の変化と異なるわけである。なぜなら荒い北風や吹雪の下で眠り込んで 春の使者が、すでに早く(一月)アンズ・ツバキ・サザンカ・ビワビワ・サンシュウユ・セイヨウサンザシ・ミズキなどの仲間に加わる。」
  また同日、内野で「野生のツバキ・若干のジュウテイカヒサカキ、いろいろな種類のササフラス、アワブキ、ムラダのほかに、山の湧き出る小川のほとりにはセキショウ、湿った岩の壁にはのイワボタン、ヤマアイ、クサニンジン、イヌナズナ、タガラシなどが咲いている。」
  二十五日、下関で「早春のことで、そこかしこにもう人々の好むウメの花が咲き、ヤマツバキもすでにかたい蕾をほころばせていた。」
  三月三十日には、岡崎付近で「私はスミレ・ソケイ・コケリンドウ・ツルボタネツケバナ・アンズ・ツバキ、それから多数の隠花植物が花盛りなのを見つけた。」
  四月六日、原の植松氏の庭園で「ここで私は、原に非常に有名な植物園があると聞いたので、ドクトル・ビュルガーと先発し、数時間後に原に着いた。日本風につくられたこの庭園は、私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、観賞植物も非常に豊富である。入口には木製の台があり、いくつかの岩を配し、植木鉢には人工的に枝ぶりによく作ったマツの木がある。人に好かれているアンズ・サクラ・クサボケ・エゾノコリンゴ・カンアオイ╶╴ラン科の植物は地面にきちんと並べてあった。また近くにはツツジが群れをなし、遠くにはツバキやサザンカがあり、石をけずって作った小さい池の周りにはコリンクチナシやシダが生えていて、色とりどりのコイがこれに生気を添えている。・・・」
  六月二十七日、上関で「・・・村尾善十郎という世話好きの男の案内で上関近傍の山地に出かけた。丘の上や谷は少し耕され、今はソラマメやアズキだけが植えてある。われわれが登った丘の植物群は、イトスギ・アラカシ・ツブラジヒ・グミ・ネムノキ・カクレミノ・ブナ・タマツバキ・クズ・ゲッケイジュなどで、これらにツルコウジ・ヤブコウジヒトリシズカ・ハエドクソウや花の咲いていない、いくつかの雑草や禾本科の植物がまじっている。高い所ではツツジやマツをみた。」
 
・『江戸名所花暦』
  『江戸名所花暦』は文政十年(1827)、岡山鳥著・長谷川雪旦画によって刊行された。この書は江戸名所案内記で、四季折々の花見の名所を示し、その由来や鑑賞の手引きを記している。花見とは言っても、花だけにとどまらず紅葉狩や枯野など、江戸の行楽スポット全般にわたっている。ツバキについては、春の部(巻の一)に、鶯、梅に次ぐ項目として紹介されている。
  紹介されているのは次の五ヶ所である。
向島  秋葉権現の門前より東のかたへ十四、五間もさきなる家に、二百種の異なる花をあつめ植たり。
平井聖天  西葛西領下平井村。渡しをわたりてむかふの河きし通り。いろいろの椿多し。
妙亀山総泉寺  橋場にあり。この処を古名石浜といふ。・・・この寺の奥庭に椿あり。・・・
椿山同  関口の通り、上小橋を渡り、右のかたへ上る阪のうへ一円をいふ。今はたえたり。
上野下寺同  東叡山中屏風坂の手まへ、寺院のうしろ下寺通りより見めくれは、椿つらなりて巨勢野もかくやと思ふはかりなり。」
イメージ 10イメージ 11 一カ所目のツバキは、向島秋葉権現周辺にあった。しかし、『遊歴雑記』には、秋葉権現とその周辺の記述はあるもののツバキについては触れていない。現代では、秋葉権現は現存するものの、周辺は一変していて、ツバキを集めた家の所在さえわからない。
  平井聖天のツバキは、川沿いの道にあるらしい。そこで、『江戸名所図会』の平井聖天宮の図を見るが、ツバキらしき木があるかはよくわからない。
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  妙亀山総泉寺のツバキは、奥庭にあるということから、『江戸名所図会』の総泉寺の境内を探したが、ツバキらしい樹木は見当たらなかった。なお、この寺は、関東大震災で焼失し移転してしまったので、現在は跡形もない。
 
 
 椿山のツバキは、「今はたえたり」とある。とはいえ、関口の椿山にツバキが全く無くなったということなのか、少々信じがたい。関口の椿山荘には、現在もシイの古木(樹齢500年とか)が残っているが、名木とされるツバキの大木はなかったということなのだろうか。
イメージ 8  東叡山中屏風坂は、『江戸名所図会』にほんの少し描かれているだけで、坂の先にツバキがあったものと思われる。なお、屏風坂は、図の左上の位置に当たるのであろうが、現代では地形すら変わってしまっている。
 
 
 
 
 
 
 
・『草木奇品家雅見』
 『草木奇品家雅見』は文政十年(1827)、種樹家増田金太によって刊行された、斑入りなどの植物の奇品約500点を紹介した図譜。ツバキは26種描かれている。その中のいくつかを示すと、下図のようになる。イメージ 1
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  これまでのツバキの図は花を中心に描かれていたが、『草木奇品家雅見』は斑入りの葉と葉の形状を中心に描いている。中でも、金魚の形をした葉のツバキを、それも斑入りにして、それを楽しむような嗜好は、江戸時代ならではと言えそうだ。キンギョツバキをはじめとする、奇品を楽しむ人々が少なからずいたことは、世間の人々によるツバキの観賞形態が変わったことを示すものだろう。
 
・『草木錦葉集』
  『草木錦葉集』は文政十二年(1829)、旗本水野忠暁著によって刊行された。『草木奇品家雅見』と同様の斑葉植物など1031種を紹介した図譜。その中のツバキとして、『樹木図説』には、葉替りものとして13種、斑葉ものの品種3種、変種74種が記されている。
葉替りもの(13)
鋸葉椿・吉右衛門伽羅挽・永縞かがり・はせがわつばき・七変化・七変化椿・多福弁天・平五郎七化・松元鵜頭葉・昌桂桜葉・米幸今桜葉・亀甲椿・黒つばき
斑葉ものの品種(3)
弁天椿・花泉砂子・覆輪一休
変種(74)
白布之部(19)
波鹿野出日本一・善右衛門白布乙女・無名宮田前立乙女・昌桂紅かけ・永縞白布・仙太白布・米幸白布・山那子出水晶・窪多出延寿・白金新三つばき・幸右衛門つばき・勇蔵・鹿児島・文政つばき・山鷹出椿・無名椿・金王・水の出水忠つばき・水の出水忠つばき韋駄天
間の布之部(8)
水の出間の布・長左衛門・矢良井園・山鷹出間の布・亀五郎間の布・深忠駿河土産・善右衛門獅子頭・市郎兵衛
黄布之部(24)
水の出黄布・栄次金魚黄布・多宮出黄布・長谷皮出黄布・緋車上黄布・同次之布・井駒出黄布・五三郎乙女・深忠乙女・上多出同・佐橋出乙女・金三郎同・平太つばき・鎌吉・同黄布・赤石産・満年出黄金椿・荻牛出大葉・松源黄布・彌七藻汐・仙太大葉黄布・窪多出金魚青茶布・佐橋出茶返し・山鷹出色上
砂子布之部(9)
べつ甲松初雪椿・吉砂子布・もみぢ屋金砂子・本所初雪・上多出砂子・番町初雪・内当出蒔絵盃・岡大出更紗ふくりん・久兵衛更紗金魚
覆輪之部(14)
山那子出弁天・波鹿野出弁天・善右衛門ふくりん・駿河ふくりん・彌七桜葉・良寿盃椿ふくりん・深忠かけはし・佐橋出蝉の羽・赤門出紅唐子・水の出酒中花・於多福弁天・伊助青ふくりん・隠木ふくりん・ひぐらし出茶覆輪