江戸時代の椿 その17

江戸時代の椿  その17
★1830年代(天保年間) 『本草図譜』『桃洞遺筆』のツバキ
・『本草図譜』
  『本草図譜』は、岩崎常正によって天保元年 (1830)に刊行された我国初の植物図鑑。約2000種の植物を96巻(5巻から始まるため92冊)に分け、彩色写生し解説している。ツバキは、巻91で以下の65品種を図入りで紹介している。
「灌木類
山茶  つばき  曼陀羅  群芳譜
躑躅茶集解(ヤマツバキ)・センジユ、ウエツマ、ヒイラギツバキ、チリツバキ
石榴茶集解・イセツバキ、ボクハン、カラコ、スズカケ、ヤマトサンガイ
一捻紅集解・ハルカゼ、セキモリ、カケハシ、ショクコウ、ササレナミ、ナベシマ、コキンラン、コマチ、タマガワチドリ、イマデガワ、ハクカン、ホシクレナイ、シカムラ、ワタシモリ、ヒナツル、ユウキリ、シグレ、ヤエモミジ、カガソメ、カラニシキ、カモガワ、カゲニシキ、ヲキノナミ、カゴシマ、カヘイ、カライト、ツリカガリ、サキワケ、イソアラシ、ミヤコメグリ、ハナタチバナ
千葉紅集解・カラシシ、シユスカサネ、カラクレナイ、カラヤエツバキ、カラツバキ(ナンザンチャ)、ヲトメ、ウスイロ、カキレンゲ、ハツユキ、ハゴロモ、アリアケ、ヲワリチリ、タマダレ、タカソデ
宝珠集解・タマテバコ
千葉白集解・カキリ、ヲノカナ、ユキノヤマ、ハクレンゲ、シラタキ、シロシシ、シロタヘ、ヨシノ、オウコウハク、フユザキノシラタマ」とある。
 
・『桃洞遺筆』
  『桃洞遺筆』は、本草学者・小原桃洞が孫の蘭峡との共著で、天保四年(1833)に刊行した博物誌である。ツバキについては、桃洞遺筆巻之三に以下のように記している。なお、記述中の漢字には、インターネットでは表記できない文字があり、ネットで公開されている国立国会図書館デジタル化資料や早稲田大学図書館古典籍データベースなどを参照されたい。
「桃洞遺筆巻之三  紀伊 小原八三郎源良直 録
  椿(キヤンチン) 附山茶花(ツバキ)
  椿(音丑倫反)  杶(禹貢)  ?(木偏に筍)(左伝)  ?(木偏に?)(説文)  ?(木偏に熏)(字彙?)  皆同字なり、和名玉ツバキ又キヤンチン、又チヤンチンといふ、本邦もとより多きものなれども、昔人識ずして、唐山より種を取よせ、黄檗山に栽しといふ、木高く聳え、木理細膩にして白実、皮に縦紋あり、樹梢枝を繁く分ち、春新葉を生ず、漆の葉に似て長し、雌木は五月長穂をなし、南天竹の花に似て白色なり、秋に至り、実熟して形連翹に似て圓長自ら竪に裂て、松実の如きもの風に従ひて飛ぶ、本草綱目に、此莢形長く鳳眼に似るゆゑ、風眼草といふとあり、山茶花は、伊藤長胤の秉燭譚に曰、椿ヲヅバキト訓ズルハ、本ヨリ誤レリ、荘子ニ、大椿ノコトアレドモ後世其花ヲ稱スルコトヲキカズ、近年平井徳建氏ナド、本草ヲ倹テ云、山茶花ト云モノ、即日本ノツバキ也ト、其後物産ノ説詳ニシメ、山茶花タルコト愈明ナリとあり、是説に従ふべし、山茶花は、品類甚多し、花史左編、群芳譜秘伝花鏡等に詳なり、本邦にて、椿をツバキと訓ずるは、其誤り来ること久し、唐山にも知れり、草木薬方雑記に、日本山茶花、其国名爲椿、不名以山茶也といひ、其下に、白者以白玉、最白玉一種、花大色白而香、香如我里白百合花之香、開放于二三月、次則唐笠也、白妙也、在高根、則又其次也、至于白菊、六角之類、花朶小不取焉、紅者以中為最花大而香、加賀牡丹甚佳、花色大紅如牡丹、花弁辺或有吐露白辺者、次則大紅牡丹、與渡守、春日倶妙、雑色最佳者、莫如有川、其白上有紅色如雲朝露其色紅有白点者、亂拍子亦然、有薄衣、色如醉楊妃者、有大江山一本有、三四色者有三国、一本乃三色者、有玉簾、一本四五色者、尚有浦山開、荒浪、鳴戸、関戸、金水引、皆為上種有加平牡丹、唐絲、鏡山、唐椿、山海牡丹諸種、皆其下者、共有五百種、有一種天下奇、開花朶色百様、其国内亦少、不可得者有一種一名五寸といへり(此下に植様接木の法ものせたれどもここに略す)
又書紀  天武天皇十三年三月癸未朔庚寅吉野人宇閇直弓貢白海石榴とあり、これに白ツバキと訓をつけたり、和名鈔に云海石榴和名豆波木とあり、共に大なる誤なり海石榴は朝鮮ザクロなり
(直按に或説に海石榴をツバキに充ることは即山茶花の一種花小にして大さ海石榴花の如く蒂は青くして筒弁をなすものを俗にフビスケと名く、漢名海榴茶(明の揚升奄文集に海紅花といふ)なりこの海榴茶と海石榴と遂に混して誤り出るなりといふ、しかるべし又芸花譜の茶梅花はサザンクワなりこれを誤りてツバキに充る説もあり)」とある。
  以上、『桃洞遺筆』に示された記述は、必ずしも史料に裏付けられたものではないようだ。どちらかと言えば、文献などから目に留まった部分を紹介した程度の資料である。ツバキについてさらに蒐集範囲を広げたものとして、後述する『古今要覧稿』がある。なお、『日本書紀天武天皇四年(675年)に「○夏四月戊戌朔辛丑、祭龍田風碑・広瀬大忌碑。倭国添下郡鰐積吉事貢瑞鶏。其冠似海石榴華。是日、倭国飽波郡言、雌鶏化雄。」と海石榴の記述がある。