十六世紀後半の茶花

茶花    7 茶花の種類その4
  天文年間から慶安年間までの約百年間に茶花が活けられた茶会は、一千回以上ある。それらの茶会で最も多く使用された花は、ツバキ、ウメである。次いでスイセン、キクと続く。この4種で全体の60%を占めている。特にツバキとウメが抜きんでて多く活けられ、この2種で40%を占めている。たぶん、茶会の花といえば、ツバキとウメという認識が浸透していたものと思われる。ツバキとウメが使用されたことについては別に数量的な視点から考察するとして、当時の茶会で、茶花がどのような取り扱いを受けていたかを茶会記から探ってみたい。そこで、茶花の使用状況を1600年頃を境として前後50年ごとに見てみよう。
 
十六世紀後半の茶花
  十六世紀の後半は、茶の湯が成立した時期である。その間に主に使われた茶花は、ツバキ、ウメ、キクで、それに次いでスイセン、ヤナギ、セキチクキンセンカ、ハギ、アサガオ、モモなどが活けられていた。その他にもキキョウ、ススキ、アサヂ、カキツバタシャクヤク、フヨウ、ヤマブキなどの使用が目につく。これらの植物は、現代でも茶花として使われるが、中には今では意外と感じるキウリ、セリ、タケノコ、ミョウガのような植物も茶花として使用された。
  茶花への関心が高まったのは、永禄年間の半ばに入ってからだろう。それがさらに注目されるようになるのは、元亀年間(1570~1573年)に入ってからではなかろうか。『宗及自会記』に元亀二年十一月四日午之刻の茶会に「水仙花、花瓶生候、此花、宗金持参」と、宗金が持参したスイセンが活けられたことがわかる。それまでにも花を持参する茶人がいたかもしれないが、茶会記にわざわざ記していることから茶花への意識や注目度が高くなったものと思われる。この頃には、茶花に関する記述も多くなり、同年十二月廿五日朝の茶会では「梅ヲむしり入れテ」、翌年正月十七日には「紅梅白梅、二本生テ・・・花瓶ノ花ヲのけて、むしりちらし候」などがある。茶花を2種活けることも多くなり、同年八月十五日には「客人之前ニ而菊ヲ活候、山吹ノ返花ト」など、宗及が茶花に興味を増していたいただけでなく、招かれた客人も面前で花を活けることに関心を向けるようになったのだろう。
  さらに、天正年間(1573~1592年)に入り、ルールらしきものが成立し始めたようだ。『宗及自会記』、天正五年三月十日朝の茶会に「客之間ハ庭前花咲候故、水斗」という記述がある。これは、部屋から庭の花が見えれば、茶花は活けないという先例と見ることができそうだ。また、『同自会記』、天正七年四月廿八日朝の茶会記に「かふらなし、薄板ニ、けしの花、生て、但、初ニゑんニあらひて持出て置、飯以前ニ客之前ニ而床へあけ、花ヲ生候」とある。これはルールというほどのことではないが、気になる所作であったから記録したものと思われる。天正年間の茶会記には、茶花に関する記述が永禄年間より詳細になっている。
  『同自会記』、天正八年二月十三日朝の茶会には「床ニ茶過テ、カフラナシ持出て、袋、客前にてぬかセ申候、薄板ヲ敷而、了  雲へ白玉ヲ切ニ遣て、客之前にて生申候」とある。この辺あたりから茶花は、茶会で不可欠の存在になっていたようだ。もっとも、同年五月十五日晝の茶会では「花、客人之前にてぬきて候て、細口ミせ申候」と、その場の興としては茶花よりやはり花入れの方に人々の関心が高いことがわかる。
  天正年間に茶花の種類が一段と増えたことは確かで、この時代に茶の湯の成立に大きな影響を与えたのは、千利休であることはいうまでもない。では、利休は茶花にも影響を及ぼしたのであろうか。利休が秀吉から茶の湯の師匠として重用されたのは、信長没後(1582年)から利休が切腹する(1591年)までの約9年間である。この間に新しく登場した茶花として、茶会記からフヨウ・ヒョウタン・クズ・ツユクサ・アザミ・キウリ・サクラ・サクラソウミョウガ・タケノコ・ムクゲハナショウブシモツケ・ヤクモソウ・オグルマ・ケイトウナンテンがあげられる。
 これらの植物の台頭には、利休の影響があったのだろうか。そのことについて、茶会記からは利休の直接的な影響を読み取ることはできないが、ニューウェーブの花を否定していたとも感じられない。新しい花の登場という視点から見ると、利休が存命の1581年からの約10年は、18種の新たな植物が茶花として続々と登場した。ところが利休が亡くなると、1591年からは10年間でたった2種、1601年からは2種、1611年からは1種と新しい茶花の出現は急激に減少している。時代が経つにつれて目新しい花が無くなったということもあろうが、やはり利休の時代は、茶花についても新しいものを取り入れる画期的な時代であったと言えそうだ。 
  当時の茶の湯で中心的な活躍をしていた利休のことだから、茶花について特別な興味を向けていなかったとしても、少なからず関心は持っていたはずだろう。秀吉と利休の間で繰り広げられた茶花に関する逸話が本当であれば、利休が茶花に少なからぬ影響を与えていたとしても不思議ではない。利休は、それまでの花入れの主流であった銅製や陶製のものに変わって、竹製花入れに関心を向けた。ということは、利休は、彼ならではの竹製の花入れにふさわしい花を生けていたと見て間違いないだろう。
  では、利休の時代に登場した茶花から、茶の湯の心得のような、一定の法則や方向性を見いだすことができるだろうか。茶花として新しい植物を積極的に導入したものの、利休の時代には今日まで伝えられるような格別な決まりはなかったと思われる。決まりを見いだそうとこだわったのは、弟子の山上宗二の方ではなかろうか。彼が何故茶花について言及したか、それは宗二が利休のような創造性には恵まれず、それまでの動向を解析しようとしたからではなかろうか。
  宗二は、『山上宗二記(1588年・天正十六年)』(『岩波文庫熊倉功夫校注より)に「侘び花入」の項で茶花について記している。まず、「一、花の事。十月に御茶の口切(くちき)り候」として、「白梅。妻(め)柳。薄色(うすいろ)の椿。白玉(しらたま)椿。金盞銀台(きんせんぎんだい)。水仙花の事なり。この花、いずれも冬専らに用いる。寒菊も冬生くるなり。ならびに右の花、春は勿論なり。」
  次いで「夏の花」「芍薬(しゃくやく)  薄色の千葉(せんよう)。ただし赤芍薬無用なり。うちの撫子。石竹。桔梗。夕顔。白き芥子。槿(あさがお)。萩。眼皮(がんぴ)。大方注す。いずれにこの外なるとも、白き花はいるべし。赤きは無用か。
 一八(いちはつ)。むくげ。是も白きは入るべし。春菊も入るべし。また秋の菊は細口には無用なり。真の手桶、つるべ、花かごには然るべし。」
  「一、善き花瓶には、万(よろず)草、悉(ことごと)く入るべし、また花の上手は、いずれの花も手柄次第なり。花に法度をいうは、初心の為なり。口伝にこれあり。」と記している。
  これらの花の大半は、利休以前から使用されている植物である。宗二はそれらの花から、趨勢や使われ方を論じているように感じる。この宗二の記述は、後に拡大解釈され、あたかも利休が定めたような伝承となり、それを後世の人々が信じてしまったのではなかろうか。