自然保護のガーデニング
自然保護とガーデニング、一見、関連性の薄い活動に見えるかもしれないが、根っこの部分では間違いなくつながっている。との思いから書いた「自然保護のガーデニング」(中公新書ラクレ)、刊行されてからもう10年以上も経ってしまった。世間から忘れられてしまったかと思われたが、まだ細々ではあるが生きている。そこで、その断片を紹介したい。また、本には載せることのできなかった文章も紹介したい。
最初に示す文章は、2003年に西武学園文理中学校の入学試験問題に使用された文章である。
自然と親しむには
日本の自然保護が進まないのは、自然教育のあり方が適切でないからだという指摘が出ている。適切な自然教育を進めるには、自然にふれる機会を多くし、観察員などの指導のもとに、自然を学習することが必要である。そして、自然保護には、最初の段階が自然に親しむことで、次に自然を学び、理解し、最後に自然を守るという実践を通して、自然保護について会得していくことが大切だとしている。
しかし、そううまく進んでいくだろうか。自然に親しむには、自然観察会などに参加し、自然とふれあうことが重要だとはいうが、月に一度参加できるかどうかという程度でなにがわかるか、というとはなはだ心もとない。自然観察会にはじめて参加した人は、様々な知識や自然保護の重要性を教えこまれて帰ってくるだろう。最も大切なのは自然と親しむことだと言っているにもかかわらず、動植物の解説を聞かされ、自然は保護すべきものだという方向に話が進むというのが実情だ。
観察会の指導員のような人たちは、誰もが自然を好きなものだと思いがちである。特に子どもは、生まれながらに自然が大好きで、自然に親しむことができると考えているようだ。が、はたして本当にそうだろうか。物心ついた頃から、家のまわりに森や川など自然あって、学校から帰ればすぐに遊べるような環境で育った人ならそうかもしれないが、大都市のマンション住まいで、自然と接するのは特別な時だけだとしたらどうだろう。指導員が考えているほどには、子どもは自然が好きではないかもしれないし、すぐに自然になじむというのも難しいだろう。
自然に親しむとは言っても、人によっては案外大変なことかもしれない。観察会ではそんなことは考えずに、目に入る植物や鳴き声の聞こえる鳥について、せっせと解説することに終始してはいないか。そうなると、子どもをはじめ、参加者たちは、自発的な意思で自然を見るということなどおぼつかない。指導員の注意をよく守って、言われた通りに観察し、適当な質疑応答があって観察会は終了する。これでは、子供たちはいかに多くの名前を覚えるか、ということばかりに懸命になってしまう。
終わった後、子供たちに感想を書かせると、いろいろな植物や動物がいて、観察できて楽しかった、これからはもっと自然を大切にしようと思います、といったお決まりの文章がたくさん出てくる。指導員もこれを見て、自然教育の効果があった、自然保護の趣旨をわかってくれたと喜んでいる。が、これはちょっと違う。子供たちは、指導員の指示通りに行動して、自然に関心があるような質問をして、その上、どのような作文を書いたら喜ばれるかということまでちゃんとわかっているのだ。最近の子供たちは、そのくらいの要領のよさは持ち合わせていると思ったほうがいい。
子供が自然に対して興味を持ったら、どんな行動をとるかを想像してみてほしい。自然観察会で指導している人、動物や植物を研究している人、こういった人々は、自分たちが子供のころにどんなふうにして、自然に親しんだり、学んだりしていたかということを思い出してほしい。そういう子供は、指導員の指示に従って行儀良く自然を見ているようなことではすまないはずだ。気に入ったものがあればそこから動かなくなったり、手で触ろうとしたり……大人の指示なんか聞かないだろう。
自然観察会で自然保護を教育することのどこに無理があるか。それは短時間で多くのことを教えようとすること、自然に親しみたいと、半ばハイキング気分で来ている人に対しても自然保護を教育しようとすること。また、子供のうちからぜひとも自然保護教育が必要だ思い込み、そうした一方的な観点から取り組まれていることにある。今時、自然保護を教え込むことが必要だと考えていること自体に、思い上がりと時代錯誤の感がある。そんなことより、とにかく、自由に、自然を感じるとってもらうことが先決課題だろう。
自然に興味を持たせるには、自然観察会などで現実の自然を見て歩くことが重要だとか、野外学習を通して豊かな自然と接触する体験を重ね、大きな感動を受けることが大切だとかいうことがよく言われている。
が、今行われている自然観察会などで、大人や子供が自由に、体ごと自然にぶつかっていくような体験ができるだろうか。特に子供の欲求、人間の本能に基づいた行動を認めてやることができるだろうか。まず、現在の自然観察会では、出発に先立って、自然と触れ合う時のマナーが示される。このマナーとは、言うまでもなく禁止事項の羅列である。もちろん、団体で行動するからには、ある程度教育的な指導も必要だということはわかるが、これでは、自然と親しむ以前に子どもの心にブレーキをかけることになりはしないだろうか。
子供たちに美しい昆虫を見せて「捕まえてはいけません」、きれいな花を見せて「貴重なものだから、触れないようにしましょう」……。自然講習会ではこんな指導が行われることも珍しくない。が、これではなんのために子供たちに昆虫や植物を見せるのか、と言いたくなる。めったに見ることのできない、珍しい動植物、ましてそれがきれいなものであれば、欲しくなるのが普通ではないか。特に好奇心の強い子供たちの目の前に、魅力ある生きものをさし出しておいて、それでいて採ってはいけない、触るのもダメ、と言うのは酷な話である。
周囲に物があふれ、何でも手に入る時代に育っている今の子供たちが、いつまでたっても手に入らないものを本気で大切だとか、価値があるとか思うだろうか。これでは、単なる知識としてしか理解できないだろうし、自然とはそのように覚えておけば良いものだと思い違いをしてしまう恐れがある。手に入らないものを正確に把握し、しかも、それが価値のあるものだと認識することは、大人でも非常にむずかしい。特に子供にとっては実感がともなわない知識は、なかなか具体的な行動に結びつかない。
もし、美しい花にまったく手をださない子供がいたとしても、それは別に自然保護の精神からではなく、単に興味がなかったからだと考えたほうがよい。だから、もし、子どもたちが美しいチョウを捕まえたいと本気で思ったら、それは、チョウの価値を認めたことであり、実感のともなった評価である。今の子どもは、知識だけは非常に豊富だが、自分から行動しようとする気力は弱い。そのため、チョウを捕まえようという気持ちになったことは、むしろ、教育効果としては喜ばしいことである。
日本の自然保護が進まないのは、自然教育のあり方が適切でないからだという指摘が出ている。適切な自然教育を進めるには、自然にふれる機会を多くし、観察員などの指導のもとに、自然を学習することが必要である。そして、自然保護には、最初の段階が自然に親しむことで、次に自然を学び、理解し、最後に自然を守るという実践を通して、自然保護について会得していくことが大切だとしている。
しかし、そううまく進んでいくだろうか。自然に親しむには、自然観察会などに参加し、自然とふれあうことが重要だとはいうが、月に一度参加できるかどうかという程度でなにがわかるか、というとはなはだ心もとない。自然観察会にはじめて参加した人は、様々な知識や自然保護の重要性を教えこまれて帰ってくるだろう。最も大切なのは自然と親しむことだと言っているにもかかわらず、動植物の解説を聞かされ、自然は保護すべきものだという方向に話が進むというのが実情だ。
観察会の指導員のような人たちは、誰もが自然を好きなものだと思いがちである。特に子どもは、生まれながらに自然が大好きで、自然に親しむことができると考えているようだ。が、はたして本当にそうだろうか。物心ついた頃から、家のまわりに森や川など自然あって、学校から帰ればすぐに遊べるような環境で育った人ならそうかもしれないが、大都市のマンション住まいで、自然と接するのは特別な時だけだとしたらどうだろう。指導員が考えているほどには、子どもは自然が好きではないかもしれないし、すぐに自然になじむというのも難しいだろう。
自然に親しむとは言っても、人によっては案外大変なことかもしれない。観察会ではそんなことは考えずに、目に入る植物や鳴き声の聞こえる鳥について、せっせと解説することに終始してはいないか。そうなると、子どもをはじめ、参加者たちは、自発的な意思で自然を見るということなどおぼつかない。指導員の注意をよく守って、言われた通りに観察し、適当な質疑応答があって観察会は終了する。これでは、子供たちはいかに多くの名前を覚えるか、ということばかりに懸命になってしまう。
終わった後、子供たちに感想を書かせると、いろいろな植物や動物がいて、観察できて楽しかった、これからはもっと自然を大切にしようと思います、といったお決まりの文章がたくさん出てくる。指導員もこれを見て、自然教育の効果があった、自然保護の趣旨をわかってくれたと喜んでいる。が、これはちょっと違う。子供たちは、指導員の指示通りに行動して、自然に関心があるような質問をして、その上、どのような作文を書いたら喜ばれるかということまでちゃんとわかっているのだ。最近の子供たちは、そのくらいの要領のよさは持ち合わせていると思ったほうがいい。
子供が自然に対して興味を持ったら、どんな行動をとるかを想像してみてほしい。自然観察会で指導している人、動物や植物を研究している人、こういった人々は、自分たちが子供のころにどんなふうにして、自然に親しんだり、学んだりしていたかということを思い出してほしい。そういう子供は、指導員の指示に従って行儀良く自然を見ているようなことではすまないはずだ。気に入ったものがあればそこから動かなくなったり、手で触ろうとしたり……大人の指示なんか聞かないだろう。
自然観察会で自然保護を教育することのどこに無理があるか。それは短時間で多くのことを教えようとすること、自然に親しみたいと、半ばハイキング気分で来ている人に対しても自然保護を教育しようとすること。また、子供のうちからぜひとも自然保護教育が必要だ思い込み、そうした一方的な観点から取り組まれていることにある。今時、自然保護を教え込むことが必要だと考えていること自体に、思い上がりと時代錯誤の感がある。そんなことより、とにかく、自由に、自然を感じるとってもらうことが先決課題だろう。
自然に興味を持たせるには、自然観察会などで現実の自然を見て歩くことが重要だとか、野外学習を通して豊かな自然と接触する体験を重ね、大きな感動を受けることが大切だとかいうことがよく言われている。
が、今行われている自然観察会などで、大人や子供が自由に、体ごと自然にぶつかっていくような体験ができるだろうか。特に子供の欲求、人間の本能に基づいた行動を認めてやることができるだろうか。まず、現在の自然観察会では、出発に先立って、自然と触れ合う時のマナーが示される。このマナーとは、言うまでもなく禁止事項の羅列である。もちろん、団体で行動するからには、ある程度教育的な指導も必要だということはわかるが、これでは、自然と親しむ以前に子どもの心にブレーキをかけることになりはしないだろうか。
子供たちに美しい昆虫を見せて「捕まえてはいけません」、きれいな花を見せて「貴重なものだから、触れないようにしましょう」……。自然講習会ではこんな指導が行われることも珍しくない。が、これではなんのために子供たちに昆虫や植物を見せるのか、と言いたくなる。めったに見ることのできない、珍しい動植物、ましてそれがきれいなものであれば、欲しくなるのが普通ではないか。特に好奇心の強い子供たちの目の前に、魅力ある生きものをさし出しておいて、それでいて採ってはいけない、触るのもダメ、と言うのは酷な話である。
周囲に物があふれ、何でも手に入る時代に育っている今の子供たちが、いつまでたっても手に入らないものを本気で大切だとか、価値があるとか思うだろうか。これでは、単なる知識としてしか理解できないだろうし、自然とはそのように覚えておけば良いものだと思い違いをしてしまう恐れがある。手に入らないものを正確に把握し、しかも、それが価値のあるものだと認識することは、大人でも非常にむずかしい。特に子供にとっては実感がともなわない知識は、なかなか具体的な行動に結びつかない。
もし、美しい花にまったく手をださない子供がいたとしても、それは別に自然保護の精神からではなく、単に興味がなかったからだと考えたほうがよい。だから、もし、子どもたちが美しいチョウを捕まえたいと本気で思ったら、それは、チョウの価値を認めたことであり、実感のともなった評価である。今の子どもは、知識だけは非常に豊富だが、自分から行動しようとする気力は弱い。そのため、チョウを捕まえようという気持ちになったことは、むしろ、教育効果としては喜ばしいことである。