マスコミ主導の自然保護

自然保護のガーデニング 2

マスコミ主導の自然保護
  自然保護が人々に浸透していくのは、四日市水俣などの公害問題がマスコミを賑わし、都市公害による被害が人々に知らされていくのとほぼ時を同じくしている。都内でも公害病認定患者が二千人を超え、その七割が気管支喘息だという(1975年)。都市では、物質的に豊かになるにつれて、健康な生活環境への関心が高まっていった。収入も増え、欲しいものは大体手に入るようになって、ようやく逆に失ったものの多さに気がついた。それは林だとかため池だとか、それまでさほど大切だと思ってはいなかった身の回りの何気ない自然環境であった。都市の空気が悪くなり、喉が痛んだり、痰が多く出たり、植物が枯れるなどの症状が身近に認められることによって、ようやく自然の重要性に気がつき始めた。
 また、数年前まで近所にいた野鳥や昆虫などが少なくなり、ツバメすら稀にしか見ることができなくなると、都市に住む人々の野生動物への関心は急に高まった。それはむしろ郷愁に近い感情かもしれない。もっとも、トンボが見られなくなったことは残念がっても、ハエが少なくなり、ヤブカに刺されることがなくなったことには気がつかない。少し前までは東京だって、ハエ取りリボンや蚊帳、蠅叩きなどが、れっきとした生活必需品であった。しかし、その存在はどんどん忘れられていった。結局、自然保護などと言ってはみたものの、見た目も良く、人間に害のない「都合のいい自然」だけを選びとって保護しようとしているにすぎない。
 さらに日本における自然保護は、失われた身近な自然を復元するというのではなく、これから破壊される恐れのある自然を、先回りして守っていくということにもっぱら主眼がおかれた。都市内の自然は、貴重だと評価されるようなものは少なく、その規模も小さいために寄せられる関心は低い。だから、実際は急速に自然が失われているにもかかわらず、住民たちは、そういえば空き地だった所にいつのまにか建物が建っている、くらいの認識しかもちえない。一方、マスコミでセンセーショナルに取り上げられる自然は、リアルな映像とともに学者の解説も手伝って、失うにはあまりにも惜しい、大変な価値のある自然というイメージがうえつけられる。今この自然を残すことができなければ、日本の自然は台無しになつてしまうかのような切実な訴えかけで、これは確かに説得力がある。それにしてもこうした報道には、誰もがすぐに自然保護運動にかかわらなければならないような気にさせられるという「こわさ」がある。
  確かに、自然保護への関心は、昔に比べてはるかに高まっている。だが、身近な自然と見たこともない遠く離れた自然とどちらを優先させるべきか、ということを考えてみたことがあるだろうか。両方とも大切だとはといっても、現実にすべての自然を保護するわけには行かない。となると、やはりいずれかに偏りがちである。
  大半の人は、マスコミを賑わせている派手な自然保護運動に賛同した方が、良い結果が得られるに違いないと思ってしまう。そして、身近問題ではあっても、マスコミにのらない地味な運動の方は放っておいて、距離は離れているのに、派手で参加しやすい自然保護に肩入れすることになる。それにこれならもし、運動が挫折したとしても、自分の生活になんの支障もない。そして、順調に進めば、自分もその運動の一端を担ったという満足感が得られる。少ないリスクを冒で、善行をほどこすした気分になれるのだから、熱しやすく冷めやすい都会の人々にとって、まことに好都合な運動には違いない。こうして、日本における自然保護は、都会人の気質にうまく合致したことによって、驚くべき速さで広がっていった。
  往々にして、自然保護は、マスコミによって公害反対運動と同じような論調で報道されることが多いが、両者は基本的に違う。公害は、いうまでもなく被害を受けは人にとっては生死にかかわる大問題であり、必死の思いで訴えを起こしている。その上、裁判で勝訴になっても喜ぶ間もなく、それ以後の生活・人生をという新たな問題に直面することになる。自然保護が、都市民の支援を受けているのは、深刻な人間の利害関係に関わらないからである。保護の対象となる自然は、遠く離れていればいるほど都合がいいのだ。
  自然保護運動に参加する人の背景について、『ナショナル・トラスト運動にみる自然保護にむけての住民意識と行動』(西岡秀三・北畠能房  国立公害研究所)を見ると良くわかる。たとえば「天神崎市民地主運動」の参加者像は、「都会派の人達は30歳代あるいは50歳代で主婦が多い。住んでいる所は緑がやや乏しい。庭木を植えたりするには家の敷地もせまい。コミュニテイの美化清掃運動も活発でなく、参加もあまりしていない。しかしあるいはそのせいか自然観察や探鳥会などへは熱心に出掛ける人が多い。マスコミで知っただけで現地をみたわけではないが、身近な自然が失われて行くことへの抗議という意味をこめて醵金している。」とある。ナショナル・トラスト運動の参加者の多くが、前述のガーデニングブームを牽引する中高年の女性であることに注目したい。
 日本人の自然保護は、実生活とは別次元にあり、マスコミで報道されるような理想的なスタイルでもって進められると考えられている。つまり、大半の人々は煩わしい人間関係や金銭問題とは無縁のスマートな方法で、自然が保護されることを期待している。自分たちの生活に密着しているケースの方がより多くの賛同が得られると思いがちだが、現実には違う。近所の宅地開発で身近な自然が破壊されても、気付かないのか関心が低く、代わりに遠方の自然保護に目を向けている。
 つまり、多くの人にとって自然とは、芸術と同じような位置づけのものなのだ。適度の距離を置いて、あまり切迫した問題にはしたくないというのが本音だろう。しかし、そのままでは、自然保護運動はマスコミ主導で進めることが一番ということになってしまう。身近な自然はどうなっても平気で、遠方の絵になる自然だけを保護するというのは、やはりおかしいということに気がつかなければならない。マスコミ主導の運動は知れ渡るのも速く効果的だが、その分リスクも大きい。日本の自然保護運動が定着しないのも無理からぬことである。

(以上文章は、2004年桐光学園中学校の入学試験問題、2012年度浦和大学短期大学部の入学試験問題に使用された文章である。)