1-1 日本の気候風土とガーデニング
・七十二候にも及ぶきめ細かい変化
世界で最も細やかな日本の四季、その被類なき美しさは体験した者にしかないとわからないであろう。日本の自然は日々移り変わり、行きつ戻りつしながら、他国にはない美しさを見せている。毎年同じことを繰りかえしているいるようだが、微妙に違う。そうした日本独特の趣、自然の移ろいを再現して見ませんか。
レンゲショウマが咲く少し前、二十四節気の小暑から大暑に、ソバナが小さな釣り鐘型の青紫色花を付ける。ソバナとレンゲショウマが同じ時期に咲くこともあるが、ソバナはレンゲショウマより高い位置に咲く。さらに、ソバナの咲く前、芒種から夏至にはトリアシショウマが咲く。レンゲショウマの咲くころには、トリアシショウマは枯れ、茶色い穂が残っているが、レンゲショウマの鑑賞に邪魔にならない。このような耐陰性の野草の組合せ植栽は、庭はもちろん、街角や公園に放置された日陰のスペースで是非とも試したい。こぼれ種で生えたキツリフネを見ながら、私はこのような、日本ならではの季節変化に応じて移り変わる草花植栽、その可能性を広げていきたいと願っている。
・日本ならではの季節変化を楽しむ
日本庭園と盆栽、スケールはまったく異なるものの共通する部分は多い。さらに言えば、鑑賞に求める本質は同じではないだろうか。というのは、日本庭園も盆栽も、三次元の造形に留まらない時間の芸術だからであろ。双方とも、四季の変化はもちろん、時代を超えて存続することを前提に作られている。
なかでも注目したいのは、年間を通して観賞に堪えるという事。日本人なら当前のことと思うだろうが、四季折々に植物を楽しむということは、日本の気候を前提に成立している。ヨーロッパの人たちは、冬に植物を観賞する庭など思いも寄らないだろう。ローズガーデンなどはその典型で、観賞時期は見事な花の咲く季節だけである。その他の季節に、バラの枝や樹形を観賞しようなどとは考えもしないだろう。それに対し、日本庭園や盆栽は四季折々の変化を味わうことができる。花がはもちろん、新緑、紅葉、冬枯れの樹形、そこに雪が降ればまたそれを楽しむことを前提にしている。この楽しみ方こそ、和のガーデニングの基本である。 ヒロハノアマナ

1-2 「和」の精神とは
・なぜ「和」を選ばないか
十一月は、十月から続くキクのシーズン。旧暦の九月九日は重陽の節句、菊の節句とも呼ばれている。昔は宮中はもとより、庶民の間でも様々な行事が行なわれていたが、現代では少々縁遠い節句になってしまったようだ。かつてはあちこちで飾られていた菊人形、都内でも三十箇所近くもあったが、今では谷中菊まつり、文京菊まつり(写真・湯島天神)、すがも中山道菊まつり、でしか見ることができなくなった。それでも、菊花を楽しむ催しは、新宿御苑をはじめ、各地で菊の展示会は続いている。

江戸菊

私は別に、国粋主義者ではないが、日本の花としてもっと菊を世の中にアピールしても良いような気がする。たとえば、秋のシーズン、たとえば東京、いや日本のメインストリートともいえる日本橋や銀座の花壇に、なぜ、和菊を植えないのだろう。江戸菊は、フレンチマリーゴールドな

・小泉八雲やジョサイア・コンドルも称賛する「和の心」
今日のガーデニングで求められる美しさとは、人目を引くこと、見る人を圧倒するインパクトがあることだけだろうか。日本風の庭園に花を植える際も、色とりどりの外来種を平気で植えてしまう。花を飾るなら満艦飾の花束とでもいうような形態、そんなガーデニングが幅を効かせている。このようなガーデニングを、これからも推し進めることが果たして望ましいことだろうか。もちろん、花の美しさを追求することに異論はないが、そうした風潮にはやはり違和感を感じる。
こうした傾向に疑問を持ったのは、私だけではなさそうだ。それも、百年も前の明治時代に、外国人が苦言を呈していた。それは作家の小泉八雲である。八雲は、花や庭の鑑賞形態について、後の日本人が陥る危うさをすでに直観していたようだ。八雲は、日本で生活しているうちに、日本の感性を学びとり、その素晴らしさを実感したのだろう。『日本の庭』の中で次のような感想を語っている。
「とにかく、あの日本の生け花というものを学んだあとは、たれしも、西洋人の生花の飾り方に対する考えがじつに野蛮な、不趣味きわまるものだということを、つくづく考えさせられる。この所見は、けっして一時の軽率な随喜礼讃からうまれたものではない。日本の内地に長年住んでみて、そのうえではじめてうちたてられた確信である。そういうわたくしなども、ようやくこの頃になって、日本の生け花の師匠だけがその技術をこころえている、あのわずかひと枝生けただけの花の枝の、なんともいえない美しさ・・・が、どうやらわかるようになってきたくらいである。ところで、それがさてわかってみると、われわれ西洋人のいわゆるブーケ(花束)などというものは、それこそ不風流な花の殺生、色彩観念に対する冒涜、いや暴行であり、醜行であるとしか、今のわたくしには考えられないのである。(平井呈一/訳)」と述べている。
さらに庭についても、「それとほぼ同じように、またそれとほぼ同じ理由で、日本の古い庭園がどんなものであるか、それを知ったうえで、われわれの国にある、あの金のかかった庭園を思いおこしてみると、あんな庭園こそは、人間の「富」というものが「自然」を侵害して、そこに不調和きわまるものをつくりあげ、その結果そこにどんな実を結びうるか、それを知らない無智さかげんを、思いきってさらけ出したものとよりほかに考えようがない。」とまで言い切っている。
このような発言は、小泉八雲だけではなく、建築家ジョサイア・コンドルも『THE FLORAL ART OF JAPAN(日本の生花)』」のなかで述べている。「日本の花 はじめに」では、日本人の美意識は、白然の素朴な美しさに触れる時に、際立って認められる。壮大さ、珍しさ、新奇さを追い求めたり、ごく身近な魅力には興味を持たないという贅沢好みは、ささやかな自然に共感を覚える日本人には受け入れられない。とコンドルは指摘している。
さらに、「いけばな はじめに」には、西洋の花飾りでは、花の取り合わせに秩序がないのに対し、日本の生花では色々な花入れに活けられた花飾りは、洗練された装飾美術となっている。西洋のブーケ、リース、ガーランドなどは、花や葉をこれでもかと言うくらいに詰め込み、華やかな塊にして美しさを示すのに対し、簡素な空間をもっとうとする日本の花飾りとは、美術的にまったく異質のものであると語っている。日本では美しい花の多くが樹木に咲くため、花を寄せ塊にするのが難しいことから、空間を生かした線状の構成意匠となると説明できよう。しかし、西洋式にまとめやすい草花に対しても、同様の手法を用いている。この花飾りの注目すべき特異性は、花の本質を楽しむ日本人の姿勢に関係する。西欧の愛好者は花そのものに重点をおくが、日本では、花を咲かせる樹木や草花のすべての特性にまで観賞の域を広げる。と、コンドルは、いけばなを通して、日本人の感性を述べている。そして、ウメやサクラを例にして、花と枝が形作る美しさ、さらには、枝や茎の線、葉形や表面のさまざまな質感、蕾や花の配置の妙にまで、日本人の自然観が存在していることを解説している。
今日のガーデニングで求められる美しさとは、人目を引くこと、見る人を圧倒するインパクトがあることだけだろうか。日本風の庭園に花を植える際も、色とりどりの外来種を平気で植えてしまう。花を飾るなら満艦飾の花束とでもいうような形態、そんなガーデニングが幅を効かせている。このようなガーデニングを、これからも推し進めることが果たして望ましいことだろうか。もちろん、花の美しさを追求することに異論はないが、そうした風潮にはやはり違和感を感じる。
こうした傾向に疑問を持ったのは、私だけではなさそうだ。それも、百年も前の明治時代に、外国人が苦言を呈していた。それは作家の小泉八雲である。八雲は、花や庭の鑑賞形態について、後の日本人が陥る危うさをすでに直観していたようだ。八雲は、日本で生活しているうちに、日本の感性を学びとり、その素晴らしさを実感したのだろう。『日本の庭』の中で次のような感想を語っている。
「とにかく、あの日本の生け花というものを学んだあとは、たれしも、西洋人の生花の飾り方に対する考えがじつに野蛮な、不趣味きわまるものだということを、つくづく考えさせられる。この所見は、けっして一時の軽率な随喜礼讃からうまれたものではない。日本の内地に長年住んでみて、そのうえではじめてうちたてられた確信である。そういうわたくしなども、ようやくこの頃になって、日本の生け花の師匠だけがその技術をこころえている、あのわずかひと枝生けただけの花の枝の、なんともいえない美しさ・・・が、どうやらわかるようになってきたくらいである。ところで、それがさてわかってみると、われわれ西洋人のいわゆるブーケ(花束)などというものは、それこそ不風流な花の殺生、色彩観念に対する冒涜、いや暴行であり、醜行であるとしか、今のわたくしには考えられないのである。(平井呈一/訳)」と述べている。
さらに庭についても、「それとほぼ同じように、またそれとほぼ同じ理由で、日本の古い庭園がどんなものであるか、それを知ったうえで、われわれの国にある、あの金のかかった庭園を思いおこしてみると、あんな庭園こそは、人間の「富」というものが「自然」を侵害して、そこに不調和きわまるものをつくりあげ、その結果そこにどんな実を結びうるか、それを知らない無智さかげんを、思いきってさらけ出したものとよりほかに考えようがない。」とまで言い切っている。
このような発言は、小泉八雲だけではなく、建築家ジョサイア・コンドルも『THE FLORAL ART OF JAPAN(日本の生花)』」のなかで述べている。「日本の花 はじめに」では、日本人の美意識は、白然の素朴な美しさに触れる時に、際立って認められる。壮大さ、珍しさ、新奇さを追い求めたり、ごく身近な魅力には興味を持たないという贅沢好みは、ささやかな自然に共感を覚える日本人には受け入れられない。とコンドルは指摘している。
さらに、「いけばな はじめに」には、西洋の花飾りでは、花の取り合わせに秩序がないのに対し、日本の生花では色々な花入れに活けられた花飾りは、洗練された装飾美術となっている。西洋のブーケ、リース、ガーランドなどは、花や葉をこれでもかと言うくらいに詰め込み、華やかな塊にして美しさを示すのに対し、簡素な空間をもっとうとする日本の花飾りとは、美術的にまったく異質のものであると語っている。日本では美しい花の多くが樹木に咲くため、花を寄せ塊にするのが難しいことから、空間を生かした線状の構成意匠となると説明できよう。しかし、西洋式にまとめやすい草花に対しても、同様の手法を用いている。この花飾りの注目すべき特異性は、花の本質を楽しむ日本人の姿勢に関係する。西欧の愛好者は花そのものに重点をおくが、日本では、花を咲かせる樹木や草花のすべての特性にまで観賞の域を広げる。と、コンドルは、いけばなを通して、日本人の感性を述べている。そして、ウメやサクラを例にして、花と枝が形作る美しさ、さらには、枝や茎の線、葉形や表面のさまざまな質感、蕾や花の配置の妙にまで、日本人の自然観が存在していることを解説している。