・都市の自然はつくりもの

自然保護のガーデニング

都市の自然はつくりもの
 「都市の自然」という表現自体、ちょつと変だと思うが、都市の自然は人間の手によって造成されたり、管理されてきたと言っても過言ではない。東京についてみれば、戦前までは江戸時代とほぼ同じような生物が生息していたと言われている。では、その自然はどのような状況下にあったかと言えば、大半の植物は人手によって植えられたもので、各家庭や会社、学校、役所などで管理されていた。自然保護とはいうものの、まったく手を触れずに残しておいたのではなく、積極的に人々の手を加えていた。とすると、都市化イコール自然が減少する、と頭から決めつけるのは、大いに問題がある。
  自然は、都市化によって減少するとは限らない。それよりも都市の形態に応じて、柔軟に増えたり、減ったりするものだと考えた方が良い。東京の野鳥を見ていると、自然もしたたかで、一方的な敗北などありえないということがわかる。
  戦後の野鳥の変化を見ると、都市の生活環境が悪化すると同時に、その数と種類が目に見えて減少している。街中には、一時、スズメとカラスとドバトしかいなくなってしまったような時期もがあった。ところが、1980年ごろから東京に、また野鳥の姿が少しずつ見られるようになった。これは、都市の自然環境が改善されたからかとも思ったが、区内の緑地は依然減少しているのを考えると、必ずしもそうとは言えない。
  1981年7月9日の夕刊(朝日新聞)には、ヒヨドリキジバトシジュウカラなどの野鳥が、夏にも都会に住む「留鳥」になって個体数も増えている、という内容の記事が載った。しかもこれは、都内だけでなく大阪や名古屋、横浜でも同様であったようだ。従来、都市化にしたがって野鳥は減少し、劣悪な自然環境に適応できる種類の鳥しか残らないというのが定説的であった。しかし、野鳥の生息形態は、都市化すれば必ず減少するというような単純なものではないことが徐々にわかってきた。
  鳥類の生息域の変化は、近年特に著しいと言われている。以前は、樹林地にしか生息しないと思われていたコゲラがしばしば都市部でも観察され、公園や庭木に営巣をはじめている。また、かつては山岳地帯の岩場が主な生息地であったイワツバメが、ビルの一画に住みついているのも発見。さらに水辺でよく見られるハクセキレイも、ねぐらとして街路樹やビルの壁面を利用しはじめている。さらに、猛禽類の仲間のチョウゲンポウは、大井野鳥公園周辺での繁殖が確認された。このように、都市では、以前よりも逆に鳥類を見る機会が多くなっている。これは、都市が鳥にとって生息しやすい環境になったからなのか、あるいは都市に住む人たちが鳥にやさしくなり、人々に接近して生活することで、逆に外敵からの被害を防げるからなのか、それともその両方なのか?  いずれにしても、たしかなことは、都市は、鳥類にとって我々が思うほど住みにくい場所ではなくなったという事実であろう。
  ここで留意したいのは、野鳥の生態が人為的な行為によって変化していることは確かで、都市の自然は人間のかかわり様によって変えることができるということである。都市の自然は、積極的な人間の関与によって、一定の状況を形成させることができる。つまり、自然保護は、言葉を換えればかかわる人によって、できる範囲内の自然をつくり、それを管理するということに他ならない。
  現在のように、とにかく人間が手を出さないのが一番、と放置している状況では、カラスはどんどん増えていくばかりである。ところで、国によっては、カラスを不吉なものと見なし、見つけしだい殺してしまう所もあるそうだ。私は、それを知らずに、中国の大学教授を都内の日本庭園に案内してしまった。だが、浜離宮はカラスが多く、まるでカラスのコロニーの中を歩いているかのようだった。造園や景観の専門家である教授も、小雨も降り出したこともあったが、カラスが目障りだたらしく、途中で見学を中止しホテルに帰ってしまった。通訳(台湾人)の話では、カラスの大群の中にいることが耐えられなくなったのではないか、ということだった。
   何もしないのが自然保護だとすれば、庭の草むしりだって、すべきではないということになってしまう。都心の盛り場周辺にカラスが増え続けるのは、気持ち悪いだけでなく「自然らしさ」からも遠く離れていくように思える。一方、イワツバメやチョウゲンポウなどが増加すれば、都市の自然が豊かになったような気がする。どちらを選ぶかは人間である。都市化したから自然をコントロールするというのではなく、自然はもともと人間が管理していたもので、今後も引き続いて管理しなければならない。