万年青

オモト・万年青・をもと
オモトの名称
イメージ 1  オモトは、大昔から日本に生育していたものと思われる。この植物を鑑賞する、愛でるようになったのもかなり昔からと思われる。室町時代末期刊とされる『饅頭屋本節用集』に「霊草」として喜兆に用いられたと記されている。縁起のよい植物として、また薬効のあることも、かなり前から知られていた。オモトを鑑賞することがハッキリするのは、『仙傅抄』(作成年に異論はあるものの1445年文安二年とする)に立花(生花)の花材として記された頃からであろう。立花として実際に生けた記録としては、『山科家礼記』の1488年長享二年正月十九日にある。オモトは、ウメ・ヒバ・キンセンカ・フキなどと共に記されている。その後も、かなりの頻繁に使用されたようで、『山科家礼記』には54の立花の中で10回もオモトを生けた記述がある。
  『山科家礼記』には「おもと」「ヲモト」と書かれており、当時は仮名書きで記されていたのだろう。『仙傅抄』も「おもと」と記しているが、『池坊専應口傳』(1542年天文十一)には「藜蘆」と記されている。また、『立花指南』(1688年貞享五年)には「蘆藜」と記されている。『立花秘傳抄』(1688年貞享五年)には「蘆藜」「葱苒」「葱炎」「老母草」と複数記されている。「万年青」記されるようになるのは、華道書では『生花百競』(1768年明和五年)からであり、『抛入花薄精微』(1796年寛政七年)には「万年藍」と記されている。なお、『華道古書集成』で検討した33の書の中で、オモトは18書に花材として記載されている。出現するのは十七世紀までが多く、十八世紀後半以降は出現頻度が低くなる。その理由は、オモトが砂物に使われていたためと思われる。
  一方、園芸書では、貝原益軒著の『花譜』(1694年元禄七年序、1698年元禄七十一年刊)に、「萬年靑(ヲモト)」と記されている。また、伊藤伊兵衛(江戸染井野人三之丞)著の『花壇地錦抄』(1695年元禄八年)に、「筋黎蘆つねのおもとに白きすじ嶋のごとく有又白きはしもありとらふおもとと云」と記載。なお、中国清代(1688年)の陳淏子著『秘伝花鏡』にも、「萬年青」が記されている。

オモトの種類
  十八世紀に入り、寺鳥良安著の『和漢三才図絵』(1713年正徳三年)を始めとして、オモトはさらに詳細に記されるようになる。『和漢三才図絵』では、オモトは「萬年靑(おもと)」と記され、「俗誤黎蘆為萬年靑之訓・・・」とも書かれている。伊藤伊兵衛(伊藤伊兵衛政武)著の『広益地錦抄』(1719年享保四年)に、「覆輪万年青(ふくりんおもと)」の記載と図も付けられている。そして、1735年(享保二十年)に菊池成胤著の『草木弄葩抄・上』が出されている。この頃から、オモト、それも斑入りが本格的に注目され、流行し始めたようだ。
 本格的な流行は、十八世紀末頃からであろう。斎藤月岑著の『武江年表』に1797年(寛政九年)「橘の異品を弄ぶ事流行」と記されている。1798年(寛政十年)「珍しい鉢物(盆栽)高値売買が禁じられる。」と、オモトを含む観葉植物が人気のあったことがわかる。1799年(寛政十一年)、育芳園から銘鑑『萬年青』が発行され、オモトの奇品79品が番付表に倣って記されている。その名を見ると、「都の城・伊達覆・・・」など地名や人名が付けられており、愛好者が広がりを増していたことがわかる。『泰平年表(大野広城が忍屋隠士の名で著した書)』によれば、1804年(文化元年)に大阪で万年青会が催されている。1810年(文化七年)にも大阪で万年青会が催されている。また、『武江年表』の文化十三年(1816)の項に、「紫おもと初て渡る、おもとゝ号すれども、蘆藜の種類にあらず、始は高価を以て○きたり、寒さを恐る故、唐むろにて養ふ」という記述がある。オモトの流行は、カラタチバナ(百両金・橘)、マツバラン(松葉蘭)、ソテツ(獅子蘇鉄)などの観葉植物と共に一世風靡することになる。
イメージ 2  文政年間に入ると、関連する図書の刊行が続き、岩崎常正著の『草木育種』が1818年(文政元年)に発行される。その中の記述に、オモトの品種(永嶋、雪山、大名、曙、鍬形など)、培養法がある。様々な園芸書のなかでも、1827年(文政十年)に刊行された『草木奇品家雅見』(撰輯・青山種樹家・金太)には、オモトの奇品63品記されている。この書には「万年青」の部があり、オモトを「志まの類・覆輪の類・鼈甲の類・青葉の類・蘭葉の類・小萬年青の類」と斑や葉形などで分類している。当時、オモトは大葉(大柄の種類)が流行していたようで、「広葉鳳子おもと」の図には「此人多年永嶋おもとを愛し歳々実生するに図のことく奇種を生す葉幅三寸余丈け長く斑の色つやとも永嶋おもとにたがわす頗名品なり」とある。またその2年後の1829年(文政十一年)に刊行された『草木錦葉集』(水野忠暁著)には、38品が図版とともに解説されている。この書でも大葉万年青の数が多く、「日向都の城・薩摩丸」などが記されている。なお、前年の1828年には屋代通賢著の『通賢花壇抄』にも、オモトの培養法とともに大葉万年青の品種が解説されている。文政年間にオモトが流行したことは確かで、『武江年表』に「盆種の松葉蘭、萬年青行はれ、数金を以て売買す」と記されている。
 イメージ 3 オモトの種類は、『草木奇品家雅見』では一部の種類とされていた「小萬年青」の人気が高まり、大葉種から徐々に主流は小万年青に移る。天保年間(1830~1844年)に入って出された『金生樹譜』(長生舎主人著)には、小万年青の図が多く描かれている。なお、オモトは「福寿草・万年青・百両金・鐡蕉」と共に新年を祝う植物の代表となっている。オモトの人気が高まるに連れて新しい品種がつくられ、刷物などが出されている。翌1831年天保二年)に関根雲停の刷物「万年青七種・金魚葉椿・斑入薔薇」、1832年天保三年)には同じく関根雲停の刷物「小不老草名寄七五三(水野忠龍撰)」「小不老草名寄手鑑」「子不老草名寄」「小おもと名寄」「こおもとなよせ」「古おもと名寄(水野忠暁撰)」が作成されている。1833年(天保四年)に長生舎主人著の『万年青譜』が出されている。

イメージ 4オモトの流行
  オモトの流行について、当時の状況を村田了阿は、『俚言集覧』に「文政の末、天保の初めにおもとを鉢に植へ、人もてあそぶこと諸国にはやる。分けて江戸に多く小おもとあり、金四百両に至る。昔おもとに金柑をさして初午の日に売りしと也」と書いている。また、松浦静山も『甲子夜話』に、「又近頃は小万年青頻りに行はる予は世外の身ゆえ知らずしてありしが、この壬辰九月十五日(1832年天保三年)が御倉前八幡の辺を過ぎしに鳥居に貼紙して今明日小万年青の聚会と題す・・・其の体彼の別当の座舗に折廻して五間と四間の三層棚を構へ凡九十余種の小万年青を陳ね置き人をして見せしむ。其観め麗美とす、又悉く此の形状を図写せし小本を版行す。人購ひ来て余に示す」と記している。
  また、寺門静軒は、1831年 (天保二年) 年刊の『江戸繁盛記』で、「寛政年間には世間では甚だ百両金(タチバナ)を愛し、一寸の茎でも千金もして、百両どころではなかった。現在は萬年青(オモト)を愛好することが、都下で皆が行なっている。聞くところによると、去年、紀州の人が、ちょっと変わった茎を持ってきた、大きさは箸くらいで頭部半分白が白い。このオモトを初め十両で売ったが、数日もたたないうちに、これを七十両で転売した。まもなく、百五十両で買おうという人が現われたが、その人は売らず、ある大諸侯に献じて、三百両を得たという。思うに、繁昌している植木屋か、太平の世の大名でなければ、こんな値段で売ったり買ったりすることができようか。これは“太平の万年青”と言うことができよう。」と記している。
  以後もオモトは人気があり、刷物として出され、1847年の『剪芲翁傳』(中山雄平著)にも「宗碩・長島・筑前久安寺」などの品名が記され、盛んであったことがわかる。なお、『剪芲翁傳』には、花壇や盆栽に加えて挿花の花材としての使用も書かれている。人気の中心は小万年青であったことは確かで、1852年(嘉永五年)、「公儀御触留」に「近年世上無益之鉢植物を玩び、就中小萬年靑之儀格外高價之品賣買致し・・・」とある。禁止されれば流行が収束するどころか、1855年安政二年)に「万年青  阿蘭陀(秋尾亭蒼山・額)」、1856年(安政三年)に「万年青五種(秋元麓翆園・刷物)」が出るなど、続いていたようだ。また、江戸以外でも、1846年(弘化三年)「盆上万年艸見立鏡(江州社中)」や1859年(安政六年)「萬年青見立鏡(東肥能府・弄花軒平篤)」・「萬年青(平安・疋田松栢堂)」などオモトの栽培はさらに広がりを見せていた。
  幕末になっても、世相の不安をよそにオモトの愛好家が楽しんでいたことは、刷物、番付などから裏付けられる。1867年(慶應三年)「万年青 藤浪龍・多賀丸(芳心亭源好筆)」の刷物が出され、この「藤浪龍・多賀丸」はオモトの新種である。ここまで江戸時代を中心に見てきたが、オモトの珍種を求める好事家は明治になっても栽培を続けた。そして、大正・昭和に入っても、オモトの人気は衰えることがなかった。

オモトの魅力
  オモトを含めて、葉(特異な形状や斑)を鑑賞すること(観葉植物)は、中国を真似しない日本ならではの楽しみ方である。また西欧人が観葉植物へ関心を向けるより早く、江戸時代に開花したことは特筆すべきことである。そのような観葉植物の中で万年青は、橘や松葉蘭などに比べて現代まで人気が続いている。それは、万年青が橘や松葉蘭などより魅力があるからと思う人がいるが、マツバランなどの愛好者から異論が出るだろう。現代でもオモトの愛好家が大勢いる理由は、栽培の容易さを取り上げたい。加えて、葉の形状(葉芸・斑)が複雑で、その変化が発生しやすいことも重要な理由であろう。
 オモトの良さを説明する際に、言葉に詰まり「気品」という言葉で納得させようとしがちである。しかし、日本人には、「気品」という言葉で何となく納得させるものの、外国人には適切な言葉が見つけられない。直訳的に「grace」や「elegance」などと言ってもなかなか伝わらない。「渋さ」「寂」も同様、訳せない上に抽象的である。また、具体的な葉の変異形質(芸)を説明しても、その用語も複雑で多くあり、さらに混乱させてしまう。
  そこでオモトの魅力を伝えるのに、見ていて飽きない、長時間の鑑賞に耐えることをあげている。これは盆栽にも通じることであり、日本的な美しさを理解してもらうには比較的通じる。外国人の中には、オモトはプラスチックの置物みたいで、形が変わらないと思っている人が少なくない。そのような人には、花も咲き実がなり、斑の色や形状もゆっくりではあるが変わることを伝える。オモトに関心を持った外国人には、見ていて飽きないと説明すると案外納得してくれる。
  近年、盆栽を栽培する外国人が増えているが、オモトについてはまだ関心が低い。オモトは、室内でも十分に楽しめ、手入れも盆栽より容易である。風情の鑑賞も、盆栽の多様性にも負けないと思う。そして重要なのは、オモトは盆栽のように根に土がなくても、根の塊だけでも輸出できる。そのため、オモトの良さを理解してもらえば、今後多くの外国人愛好者を獲得できると期待したい。