混乱している自然とのふれあい

自然保護のガーデニング

混乱している自然とのふれあい
 自然とのふれあいは、国をはじめとして学校や地域でも積極的に進めようとしている。とはいえ、都会に住む人々にとって、山や海のような自然の豊かな地域に出かけることは、月に一回もあればいいほうである。そして、せっかく自然の中に入っても、そこでの遊びは、子どもは携帯ゲーム、大人はカラオケと、都市にいる時とほとんど変わらないケースが目立つ。自然とのふれあいに積極的というのは外見だけ。このような活動形態で本当に自然を知り、楽しんだことになるのだろうか。
 ハイキングをしながら、ラジカセを聞く程度なら我慢できるが、本格的なカラオケセットを川原に設置し、ボリュームをいっぱいにあげているのを見ると、もはや自然とのふれあいなどとは言えず迷惑行為ですらある。これらは、自然の中へ都市生活の一部を持ち込んでいるだけで、自然を理解しているわけでもなければ、自然を感じ取ろうとしているわけでもない。子どもも大人も一緒になって、大声をあげて、自然の中に日頃のストレスを吐き出している。
 そこで、騒いでいる人に注意したら、音が大きくて周辺のキャンパーに迷惑をかけていることまでは何とかわかってもらえるかもしれない。が、カラオケは、豊かな自然の中で行うべき行為ではない、などと言ってみても理解してはもらえないだろう。川原には野鳥をはじめ色々な動物が住んでいる。大きな音や振動によって彼らを脅かすようなことは極力避けたい。また、山奥には野生動物が生息しているだけではなく、地域の人々にとって神聖な社や由緒ある史跡などがある。たとえ人里離れていても、人間が自分たちの楽しみのためにだけで、歌ったり踊ったりしてはならない。
 にもかかわらず、平気でこうした行為をやってのけるというのは、マスコミの影響力が非常に大きい。テレビドラマや映画などでは、若者たちが海や山にでかけて、各自好き勝手に振る舞う楽しげな映像を流している。それも「絵」になるように美しい自然の中を選んでいるから始末が悪い。おもしろいドラマを見ている最中には、バーベキューの後始末はどうするか、というようなことは考えもしない。記憶に残るのは、自然の中で生き生きと遊んでいる光景だけである。特にコマーシャルでは、それが一種のファッションであるかのように、若い人が勝手気ままにふるまう様がいやというほど映し出されている。
 近年は、このような傾向が特に顕著になった。自然とのふれあいなんて、誰もが生まれながらにできるものだと思いがちだが、実はそうではない。生まれた時から自然に囲まれて生活していれば、自ずと自然の中で遊ぶことも身につくだろう。が、ふだんは都会に住んでいて、年に数回、気分転換に自然の豊かな場所を訪れるといった程度では、ただ森林や海の近くにいるというだけで満足してしまうのも、仕方のないことだ。
 事実、幼稚園では、寒いときには日向で遊ぶというような、ごく当たり前の対応ができない子どもがいるらしい。外にいて寒いと感じたら、体を動かして温かくすればよさそうなものを、いつも冷暖房完備の室内で過ごしているような子どもは、自分からは何もせず、ただじっと温かくなるのを待っているだけだという。
  自然を無視した都会人の行動は、ふだん、自然と縁のない生活をしているにもかかわらず、テレビなどによって、さも自然と共生しているようなイメージを植えつけられている。大自然のなかの○○万人のコンサートとか、自然に囲まれた大フェスティバルなど、キャッチフレーズの中にもふんだんに「自然」という言葉を使用する。このように、子どものころから、映像による自然を多く見せられていることが、本物の自然を見分ける能力を形成されにくくし、また、都会人の「自然」に対する印象を大きく歪める原因となっている。これは、マスコミや、売上を増やすために有効であれば、イメージだけの「自然」を安易に利用しようとする商業主義にも大きな責任がある。
 とは言うものの、都会に生活しているとストレスが多く、その解消には自然にふれあうことが最も効果的であることから、ある程度のことはやむを得ないという考え方もある。
 このような自然とのふれあいが混乱しているのは、映像ではない本当の自然がわからなくなっているためである。自然への関心が低いとか、自然保護の精神が希薄であるとか批判するのは簡単である。が、そのような指摘を受けて、頭越しに、子供の頃から自然保護教育をしなければならないと結論するのは強引すぎる。まず、都市住民が意識している自然とは何か、そのあたりから考えていかなければ先には進まないだろう。

(以上文章は、2011年度  甲陽学院中学校の入学試験問題に使用された文章である。)