続華道古書集成の植物 第四巻その1

続華道古書集成の植物    第四巻その1

『仙傳抄』  
  『仙傳抄』は、解題によれば「『仙傳抄』東洋文庫蔵。古活字版。一冊。元和頃に刊行。整版本である寛永二十年刊の『仙傳書』は『花道古書集成』の第一巻に「仙傳抄」の書名で収まる。しかし、本書の古活字版はその刊行が整版本よりも古く、東京都立日比谷図書館の加賀文庫蔵本に次ぐ木活字版である・・・その筆者は詳かでたく、寛永以後の加筆であろう」とある。
  記されている花材は、第一巻と同じである。なお、出現の順や記載の仕方には多少違いがあるものの、改めて示す必要はないと、判断した。

『花秘傳』
  『花秘傳』は、解題によれば「書写は筆跡に室町末の特徴が認められるゆえ、奥書の天文十二年当時として過誤なきか・・・『花秘傳』は内題によるが、『文阿弥花傳書』の別称もある如く、文阿弥により伝えられた立花の伝書」とある。
  記されている植物名は10種程度で、特に新しい植物はないので詳細を示す必要はないと判断した。ここで、気になったのは「花あやめ」の記載である。この「花あやめ」は「杜若」と共に水辺に咲くとあり、ハナショウブを指しているが、これまで見てきた花伝書に、「花あやめ」という記載はない。ハナショウブは、「花菖蒲」「はなせうふ」「花水剣」「花志やうふ」などと記されている。また、アヤメについても、「あやめ」と平仮名で記されるのは十七世紀後半になってからである。
  『花秘傳』には、「沙羅双樹」の名が記載されているが、これまでの花伝書では『立花大全』(1683年)が初見である。また、『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)には、1669年が初見とされている。『花秘傳』の「沙羅双樹」は、ナツツバキではなく、フタバガキ科のサラソウジュを指しているのだろうか。

『佛花抄』
 『佛花抄』は、解題によれば「奥書によれば延宝六年の書写であるが、「能阿在判」とあるところから推察すれば、原本は室町の中期以降のものではないだろうか・・・なお、本書が花道の古典『仙伝(抄)書』(古活字版・整版本)が板行された二十五年以後の書写本であっても、花伝の内容は特に『仙伝抄』の解釈に善き資料であると共に、室町末期の花伝を理解する為には大いに益する一本であろう」とある。
  花材は、50程記されており、現代名にしたのは48種である。大半の植物はこれまでに記されているが、「づゞだま」ジュズダマは、茶花として『川上不白利休二百回忌茶会記』(1782年天明二年七月朔日)が初見である。花伝書では、『佛花抄』が初めてとなる。書写は延宝六年(1678年)とされているが、茶書の初見より1世紀以上早いことになる。
  また、「かんし」「みかん」は、新しく登場した花材として加えることにした。一連の記載として、「たちはな」「かんし」「みかん」「柚」がある。これらは、ミカン科の植物であろう。となると、「たちはな」「かんし」「みかん」の現代名はどのようになるか、判断に迷った。『新日本植物図鑑』の記述から推測して、「たちはな」はニッポンタチバナと思われる。「かんし」と「みかん」は異なる植物であるとして、「かんし」はベニミカン(ベニコウジ)、「みかん」はキシュウミカン(コミカン、タチバナ)が近いと推測した。なお、これまでの花道書で、「みかん」と「柚」の初見は、『替花傅秘書』(寛文元年1661年)である。『替花傅秘書』での「みかん」は、種名ではなく総称名とした。しかし、『佛花抄』に記された「みかん」は、「かんし」と区別していることから、当時は、「かんし」(ベニコウジ)と「みかん」(コミカン)を指していたものと推測する。
  ここでは、以上のような判断をしたが、『佛花抄』の原本の作成時期から考えると、やはり問題がありそうだ。たぶん、『佛花抄』の「原本は室町の中期以降」とあるが、花材については、延宝六年(1678年)の書写時に書き換えられたものと思われる。

『立華極秘口傳抄』
 『立華極秘口傳抄』は、解題によれば「写本・・・元禄十年閨二月、池坊専養の門弟梅忠軒可存の伝を濱那ト止が、尼崎住の飴屋三右衛門に宛てた伝書である・・・この元禄期は最早立花も大体に於て定型化して、創作性は殆んど見られない・・・極秘口傳などと云う言葉は、内容の薄らいだ空間を埋めるたのカモフラージュでもあった・・・そうした端境期の立華伝書として、一面花道史の上に興味のある」とある。花材は、50程記されており、現代名にしたのは44種である。大半の植物はこれまでに記されている。

『宗徧茶花』
 『宗徧茶花』は、解題によれば「写本・・・跋によれば、元禄十六年四月に山田宗偏の茶席の花を某氏が写したものである・・・茶匠山田宗偏は、千宗旦門下で利休の茶の正統をつたえ、花は池坊に学んで立花も名手であった。当時まだ茶花の用語はなかったから、これは茶湯の座敷に生げた生花というべきであろうが、その手法には華麗と雅趣をあわせそなえた意匠性があり、いわゆる「だてに見事」な元禄風を偲ばせる。素材は椿、梅、木樫、朝顔、麦穂、空木、撫子、蓮、紫蘭、擬宝珠、杜若、下野、葡、牡丹、石竹、水仙などで・・・花の出生に感じる面影を、自然の風躯として生げようとする妙技がみられる」とある。
  『宗徧茶花』は解題の通り、花材の図である。解題に記された植物が描かれているものの、絵には花材名などの記載は何もない。絵は精巧とは言い難く、植物名を同定しがたい絵があるため、検討を省く。

『立花圖巻』
  『立花圖巻』は、解題によれば「この図巻には、おわりに、淇園主人画とあるだけで、描かれた年月その他一切記入されていない。巻中に十二の作品図がある・・・全体から受ける感じでは、初期の立花に非常に近いものを感じる」とある。解題の通り、図だけで花材名の記載はなく、絵からは植物名は同定しがたく、検討を省く。

『立花傳』
  『立花傳』は、解題によれば「池坊の立花の秘伝を記した書写本。筆者は不詳・・・本書の内容には、池坊専養(正徳元年十月没。池坊の十六代目)の花伝以外に、他の宗匠の伝が記してあるように思える・・・花押は十七代目池坊専好のものである。書写年代は彼の専好が没した享保十九年前後の時代と思われる」とある。
  『立花傳』には160程の花材が記され、そのうち140を現代名にした。これらの大半は、これまでの花道書に記された花材である。新しく登場した花材は、以下のように一応植物名を同定したが、多少不安がある。
  まず、「岩はせ」は、ツツジ科の常緑小低木アカモノとした。
 「からよもぎ」は、キク科の多年草オトコヨモギとした。
  「水ふき」は、スイレン科のオニバスとした。
 「大名竹」は、イネ科の竹の一種トウチクとした。
 「根笹」は、イネ科の笹の一種ネザサとした。
 「野かいとう」は、バラ科の落葉低木ノカイドウとした。
  「ハセ」は、ウルシ科の落葉小高木ハゼノキとした。
 以上の植物名について、『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)を見ると、オニバスとハゼノキは享保年間(1716~1735年)以前が初見であることから矛盾はない。しかし、「まうそう竹」がモウソウチクであるとしたら、初見は『琉球産物志』とされ、1770年とある。となると、書写年代は享保年間より後であるということか、それより先にモウソウチクが知られていたことになる。どちらが正しいかは判断しかねるが、モウソウチクの渡来については諸説ある。中でも、『南聘紀考 下』によると元文年間(1736~1740年)、薩摩藩に輸入され植えられたとの説は、信憑性が高いと思える。
 『立花傳』の花材は、数多くの植物が記されているものの、十七世紀までの花伝書に記された植物が多い。したがって、モウソウチクなど一部には疑問はあるが、十八世紀中頃までに記されたと考えて良いだろう。

『生花之書』
  『生花之書』は、解題によれば「写本・・・著者不詳・・・池坊系の生花書の一種・・・寛文から元文頃まで・・・口伝」とある。花材は、30程記されているが、大半の植物はこれまでに記されており、改めて示す必要はないと判断した。

『生花宗耳一傳ノ生形書』
 『生花宗耳一傳ノ生形書』は、解題によれば「写本・・・筆写年代もわからない・・・茶家系の生花に近い・・・享保元文から明和頃までの・・・書の性格ある」とある。花材は、25程記されているが、大半の植物はこれまでに記されており、改めて示す必要はないと判断した。イメージ 1