天神崎ナショナルトラストの嘘と実

自然保護のガーデニング
天神崎ナショナルトラストの嘘と実
 
1974年頃から1985年頃にかけて、マスコミを賑わせた和歌山県・天神崎のナショナル・トラスト運動について、皆さんはどの程度ご存じだろうか。この運動について作家の中村豊秀氏は『天神崎』(国書刊行会)という本に著している。天神崎に住み、運動の大半を色々な角度から見聞し、取材した中村氏は、善意で始めたにもかかわらず犠牲が多く、得るものの少なかった運動の、マスコミ報道とはかけ離れた「真実」を伝えたいという思いが強かったようだ。過激な批判とは一線を画しているが、その分よけいに氏の言葉は重い。確かに、告発本につきものの「悪役」は登場しない。天神崎運動を始めた、元高校教師の外山氏を始め、この地に別荘を建てようとした業者、運動に懐疑的な眼差しを向ける市民、募金を寄せる全国の協力者、また、この運動を美談とし、終始その論調を変えなかったために結果的に、読者を欺くことになったマスコミの人々……どの登場人物にも、批判を受けなければならないほどの悪意は見当たらない。
 ナショナル・トラストで守ろうとした天神崎の自然、貴重な、雄大な……世界に誇ることにできる素晴らしい自然、だと誰もが思うだろう。事実、運動に携わる人々や大新聞の記者たちは終始、そうした美辞麗句で運動の対象地となった場所を飾りたてた。が、事実は違っていた。保全の対象地とした場所は、半島中央部の山林と湿地それに飛び地を含むわずか4ヘクタールほどの狭く、しかもとりたてて言うべきほどの自然があるというわけでもない、「どうってことのない」場所でしかなかった。
 その程度の場所に50戸の別荘を建てる開発申請を出したことによって、天神崎自然保護運動は始まった。「天神崎に別荘、これはいけない」と思った元高校教師の外山氏は直ちに「天神崎の自然を大事にする会」をつくり、開発の停止措置の陳情をするために署名運動を始めた。約三ヵ月間で一万六千人もの署名をあつめた。この運動は、発足当時はまだ、土地を買い取って自分たちの手で保全するなどという発想は全くなかった。お願いや陳情だけで開発にストップをかけることができるという甘い見通ししか持っていなかった。しかし、動きだした運動には加速がつく。8ヵ月後には「熱意表明募金」という曖昧な名目で募金を募っている。その名からも想像がつくようにこれは運動にかかる経費のための募金であると思われる。そこへ、マスコミはこの運動をことさら美談仕立てで報道した。外山氏は次第に「私財をつぎこみ天神崎の自然を守ろうとする救世主」のような人物に持ち上げられ、外部の人々からも激励や募金など熱い眼差しが注がれるようになった。
 外山氏自らが「協議会の運動は手さぐりの運動だった」(因みに氏らは、発足後僅か4年の間に「天神崎の自然を大切にする会」のほかにほぼ、同一の目的を持つ三つの団体を設立している。便宜上その三団体を総称して協議会と呼んでいる)と認めていた。この理念も計画性もない運動の最大の被害者は、実は業者であった。バブルの後遺症か我々は業者=悪者というイメージを抱きがちであるが、この運動の的になった業者は気の毒なことに真っ当な人々であった。
 それが1977年、和歌山県は、「どうしても開発を阻止したいならあなた方が買い取るしかない」と県側に通告された外山氏は、ここで始めて開発予定地4.1 ヘクタールの買い取りを決意するに至った。はからずもこれがイギリスのナショナル・トラストの運動と似通った様相になった。しかし、このように土地を買い取ることをうたった募金運動を始めた以上、会が財団法人格を取得しておかねばならないのは至極当然のことなのに、なぜかこののち10年以上も任意団体のままであった。ために、多くの人々の善意の募金で買った土地なのに、登記の際には個人財産として登記するというような、極めて不透明な事態をも招くことになった。
 もともと地元では何故、どうしての声が多かった天神崎保全のための募金は、遅々として進まなかった。1974年10月から1983年12月までの9年間の募金累計八千万円、これはなんと目標額の半分にも達していなかった。運動がいかに地元で不人気だったか……ということだ。協議会は金集めの活路を「日本」に求めざるえなくなり、ますます、運動は田辺市民の手を離れていくこととなった。
 この運動が全国的なものとして広がっていった背景には、開発=悪という理論を下敷きに報道するマスコミの賛美と煽動が大きかった。たとえば、新聞、テレビで天神崎の運動が報じられる時には、ほとんどと言っていいほど、絵になる「丸山灯台」が登場する。しかし、丸山灯台も様々な生物が生息している岩礁地帯も、保全対象地としている4.1 ヘクタールの土地には含まれていなかった。まったく関係のないところを映して募金の協力を訴える、これは明らかに善意の第三者を欺く行為である。外山氏ら協議会のメンバーは事実と違う報道には毅然と反論すべきであった。だが、日頃応援してもらい、その影響力の大きいこともよく知っているだけに、「黙っていたほうが得」という計算が働いたとしても、それを責めることはできない。
 突然、別荘開発にストップをかけられた四つの業者たちは、銀行からの多大な借入金抱え、「買うから待て」のカラ手形に泣かされた。1978年になってようやく第一次買い上げが実現した。が、ここは飛び地で利用価値も最低であった。第二次買い上げの時の資金不足は4千万円にも上る膨大なもので、銀行や個人の借入金をあてがった借金だらけの買い取りであった。おまけにこのときまた、マスコミによって外山氏らの「立替え」は「私財つぎ込み」や「私財投入」という誤った形で報道され、自身の口から訂正されたのは三年余りもたってからであった。本人が意図して発言したわけではなくても、間違いを長い間訂正しなかったことで運動そのものに対する不信感を抱かせるには十分であっただろう。こうして、ある時期から善意の募金が、自らの立替え金を回収するための募金になるという奇妙な事態が生まれた。
 連日マスコミに登場してはいたが、そうなればそうなったで、会や催し、各地の同種の団体との交際なども増え、経費の増大にもつながった。騒ぎのわりには募金は集まらず、次の買い取りに必要な7千万どころか二次買い取りの際の立替え金の返済にも事欠く有り様であった。ところがここで運動の崩壊を救ったのは行政の力であった。その経緯は非常に複雑なので簡略化させていただくが、とにかく協議会は一旦自らの手で買い取った土地を資金不足でどうにもならなくなって、田辺市(県は資金面で田辺市に援助している)に買い取ってもらったのである。しかも、市の提示した買い取り資金は3千万しかなく、協議会としても5千万で買った土地をまさか3千万で売るわけにはいかないので、差額の2千万は市に寄付するという何とも妙な細工をしてしまった。あくまで募金で行うべき運動に税金を使うことになってしまっただけでなく、肝心要の土地が市のものになってしまってその土地に対する権利は喪失、運動そのものも大きく後退してしまった。
イメージ 1 しかし、皮肉なことに天神崎の運動が最高に盛り上がったのは、取得した土地を市に売ってしまったあとの三年ばかりであったという。なぜか、それは1982年にある大新聞がコラムにとりあげたからであった。その中で行われた第三次買い上げは、止むを得なかったのだろうが、とんでもなく高いかいものになってしまった。このころになると協議会は都合のわるいことは一切発表しなくなっていた。募金で運営している事業であるかぎり、その内容は最大漏らさず報告する義務があるはすだが、それさえも忘れているかのようであった。おりしも、イギリスのナショナル・トラストの後報担当者が会議に出席するため、大津市にやってきていた。それを費用の一切を負担し、一流ホテルに泊めて厚遇したのは協議会の人々で、そのころから、驚いたことにかれら「世界の天神崎」を口にするようになる。
 マスコミの態度に変化が見られるようになったのは、1985年頃からであった。その直前、具体的には1984~85年には「1985年3月までに8千万円が絶対に必要だ」という協議会の意気込みをうけて、マスコミ協議会が一体となって大々的な募金運動が展開された。この8千万で天神崎はすべて買い取って運動は完了する、と思った多くの人々にとってこれはほとんど騙されたにもひとしかった。
 その上、土地の買い上げにも十年来の懸案である法人格取得のためにも、いづれにもまだ5千万円近い費用がかかりそうであった。かくして「完了まで後一ヵ月」と言ったようなマスコミの報道は大嘘になってしまった。市民の間にも「おわったはずなのに、まだ募金のチラシが来る」といったような疑問とも苦情ともつかないような声が渦まいた。それから約8カ月怒ったマスコミはこの運動を無視した。土地の買い取りをようやく発表できたのは冬も間近い1985年11月25日であった。この日最後まで残っていたA社の土地の買い取りが終わった。「10年間も待ってくれた業者や関係者の温かい心こそ、天神崎ナショナル・トラスト運動を実らせた陰の力だと感謝している」という外山氏の発言を始め、一旦は騙されたとおこっていたマスコミも最後はやはり美談でしめくくろうと思ったのか、なかには運動の変質ぶりや会計報告の曖昧さに言及したものもなかったわけではないが、おおむね「良かった、天神崎は守られた」という論調になっている。
 この運動の中で、日本で最もナショナル・トラストの情報と知識を持っていた日本自然保護協会は、何をしていたのだろうか。指導的な立場にいて当然だと思うのだが、やったことは沼田理事が来て現地調査をして、自然保護講演会を行ったくらいだ。もし、もっと適切な指導があれば、中村氏の指摘するような混乱はかなり少なかったのではなかうか、と思われる。

(以上の文章は、『自然保護のガーデニング』(中公新書ラクレ)に掲載したものである。刊行してから10年以上も経っており、その後の経緯を知っている方がいれば、お教えいただければありがたい。中村氏は、刊行当時千葉県内に居られ、『天神崎』(国書刊行会)に書けない話しも伺った。それだけに、現在でもとても気になっている。)