自然保護の研究を問う

自然保護のガーデニング12

         2002年8月2日発行『週刊朝日』-「新書漂流29」の永江朗氏の書評を示します。
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「日常的に具体的な自然に触れていない人」が圧倒的に増えてしまった日本。そのような中で
「日常的に具体的な自然に触れていない人が、自然保護を考えた場合は危険である。」
「日常的に具体的な自然に触れていない人」
の自然保護の研究を問う。

自然保護の研究を問う
 日本の生態学者は、植生や群落の遷移の調査は得意でも、緑化、森林造成にどのように役立てるかという視点が希薄である。オランダのニーメンゲン大学教授であるヘストフ博士などの西欧の学者は、実際に自然の復元を手がけている。西欧の植物学者は何のために、調査研究をするかということを比較的はっきりと提示してくれる。たとえば、ゴミの山に森を造る、安定した緑にするための潜在植生、失った森林の復元。彼らは、整合性ある理論を構築するために行っているのではなく、まして研究のための研究だけをしているのではない。現に、西欧にでかけた日本の植物生態学者は、ヘドロを積み重ねて生まれた森林公園を見て、ゴミの山に森林を造る手法を学んで帰ってきた。また、アウトバーン周辺では潜在植生を考慮した森の造成に感嘆している。
 他方、日本の生態学者は、日本の緑化技術や造林技術についてどの程度研究したのだろう。江戸時代はもとより、従来、日本の自然がどのように守られてきたか、その具体的な手法や技術が非常にハイレベルであったことを彼らはほとんど無視している。生半可な西欧の学問的な知識を、ビオトープなどと称して、あたかも日本でも通用するように紹介したり、ドングリを蒔けば安定した植生ができるなどと指導している。
 日本では、自然保護への対応は、学者の調査研究成果がでなければ、前に進めないようなところがある。開発するにしろ、保護するにしろ、調査が終わるまでは何もできない。しかも、研究成果が出れば、保護にふみ切ることができるかといえば、それが必ずしもそうとは限らない。現実にはすでに手遅れであることのほうが多かったりするからだ。
 本当に調査の必要があるのは、保護の対象である植物や動物ではなく、それを取り巻く環境、特に社会環境だ。社会環境がこれまでどのように推移し、さらに今後どのようになっていくか、それを知ることが最も重要なことではないか。ところが、不幸なことにそれは、植物や動物などを研究している人たちにとって最も不得手な分野でもある。自然保護するための調査研究が、純粋に自然科学の学問対象であるかを生物学者が自問自答していれば、あるいは、日本の自然破壊が顕著になってきた時点で、自然の研究だけでは自然破壊を防ぐことはできない。と、強く訴えてくれていたら、事態はまったく別の方向に進んでいた可能性がある。
 熱帯林の問題などは、その典型的な例だ。熱帯林の保護は、植物学的な問題というより、政治・経済の範疇の問題だと言っても過言ではない。もちろん、自然保護の問題ではあるが、植物学や動物学が純粋に関与できる部分は一体どのくらいあるだろう。むしろ、問題解決に当たって、植物学や動物学から見た提案は、ほとんど効果がないといったら、言いすぎになるだろうか。破壊されているのが自然だから、自然の問題のように見えているが、これは実は社会問題なのである。
 自然保護の問題を解決しようとする時、一見学問らしい生態学的技術をいくら駆使してみても、さほど自然保護の面で効果があるとは言えない。それどころか一歩間違うと、意味のない辻褄合わせになったり、テクニックだけが先行して、逆効果になってしまうこともあり得る。実際に熱帯林の減少を防ぐには、経済的な手だてを打つことが何よりも先決で、次に、教育・啓蒙といったことに多くの人手と時間をかける必要がある。日本の自然保護の問題についても、基本的には同じだと思うが、動植物を研究している学者は、そのことをどの程度自覚しているだろうか。
 熱帯林問題は、貧困の解決からはじまって、自然をつくる糸口を見つけることが必要である。それには、現地の子供や高齢者などの協力を得て、草や木の種を蒔いたり、苗木を植えることから始めるとよい。まず、感化しやすい人を対象に、緑化をすることに賛同させることが必要である。たとえ苗木が枯れてもいい、緑を回復させる活動を体験させることが重要である。そのためには、自分の好きな植物の種や苗を選ばせ、楽しいイベントにすることである。つまり、ガーデニングをさせることから緑化に結びつけ、林の造成へと導くのである。遠回りをするように見えるかもしれないが、実はこれが自然保護へのもっとも有効な道である。