『花道古書集成』第一巻の花材その2

『花道古書集成』第一巻の花材その2

『百瓶華序』
  『百瓶華序』は、「百瓶華序に就いて」によれば「百瓶華會は慶長四年の秋十月十六日・・・開催された・・・慶長五年に書かれたもの」とある。『百瓶華序』には60種程の植物が記され、これらの花材を『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)対照すると、たとえば「紫薇花」がサルスベリであるとすれば、渡来は1645年頃とされている。他にも『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)に記される以前の植物があるなど、慶長年間(1596~1614)の花材とするには問題がある。そのため、取り扱いに苦慮することから、以後の花材検討の資料としては扱わないことにする。

『替花傳秘書』
  『替花傳秘書』は、寛文元年(1661)に高橋清兵衛が版行した花伝書である。著者の記載はない。
  『替花傳秘書』に記されている花材は、170ほどあり、128種を現代名にした。記された花材を現代名に該当させるにあたって、「ねふ」「都草」は問題がある。この二つの記載は、『花道古書集成』及び『続華道古書集成』の中に一度しか記されていない。そのため、「ねふ」はネムとしたが、確証はない。「都草」はミヤコグサとしたが、確証はない。
  これらの花材を『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)と対照すると、ナツハゼ(「なつはせ」)を除き、1661年(寛文元年)以後が初見となる植物名はなかった。ナツハゼの初見は、『資料別・草木名初見リスト』によれば『諸国産物帳』(1735~40)とあり、70年以上前となる。しかし、ナツハゼの記載は、『立花大全』(1683)や『立華指南』(1688)にも記されおり、「なつはせ」はナツハゼであると判断した。
  その他気になる花材として、アサガオがある。アサガオについては、『替花傳秘書』の文中に「・・・萬葉に  朝がほの・・・」と歌を紹介する中には記載しているが、花材としては取り上げられていない。

『六角堂池坊並門弟立花砂の物圖』
  『六角堂池坊並門弟立花砂の物圖』は、図集で花材は描かれているが縮小され、植物名の判断が難しく省く。

『立花初心抄』
   『立花初心抄』は、成立年代が定かでないことから多少問題あるが、花材は85程あり、80を現代名にした。花材の大半はこれまでの花伝書に記された植物で、そのため初見時期から検討しても問題はない。

『大住立華砂之物圖』
  『大住立華砂之物圖』は、図集で花材は縮小され、植物名の判断が難しく省く。

『立花大全』
  『立花大全』は、「立花大全に就いて」によれば「初期に於ける最も完備せる立花全集・・・当時の花書として最も信用あるもの」とある。著者は、池坊専好の弟子の十一屋太右衛門であろうとされ、天和三年(1683) 、『替花傳秘書』の22年後に刊行されたものである。書は五巻からなり、「立花」を「たてはな」ではなく、はじめて「りっか」と称している。
 『立花大全』に記された花材は160種程あり、133種を現代名に示せた。現代名を確定できなかった花材に「羊躑躅」がある。「羊躑躅」は、ツツジの古名とされている。しかし、『立花大全』にはその他にも、「躑躅」「大躑躅」「小躑躅」という記載があることから、「羊躑躅」と「躑躅」は異なる花材と考えるべきだろう。そこで、『樹木大図説』を調べると、「羊躑躅」はレンゲツツジ、チョウセンヤマツツジ、キツツジなどの可能性が記されている。さらに「羊躑躅日本のレンゲツツジに当たるという人もあるが根拠が薄く、それに近い別種のものであろう」とある。
  『立花指南』によれば、「羊躑躅」は、一名「三葉躑躅」。「八九月の比盛んに色づく紅葉ならぬ時に不用本姓よはき物にて風か日に當ては暫時にしぼむ白くこまかなる花ありてうらに咲く物なれど花と云う迄にみる甲斐なき物故大かたはむしり捨て葉斗用ふ」とある。
  さらに、『立花秘傳抄』では「蓮花つゝじ・・・羊不喫草(レンゲツゝジ)・・・黄躑躅といふ・・・餅つゝし・・・羊躑躅といふ」とある。
  以上から、「羊躑躅」は、現時点では現代名の判断ができない。「大躑躅」「小躑躅」についても同様、種名として該当するものがないので、総称名として属名のツツジとする。
  次に、「小手毬」と「鈴懸の花」も判断に迷った。これらの花材は、記載の仕方から異なる植物であると考えられる。他の花伝書では、コデマリは「コテマリ」「小手毬」「すずかけ」「小粉團」など記されている。となると、『立花正道集』の「鈴懸の花」は、ゴマノハグサ科のスズカケソウではなかろうか。
  『立花大全』に記された花材を『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)、『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)と対照すると、前記の「なつはせ」を除き、矛盾する花材はない。
  『立花大全』の『替花傳秘書』の花材を対照させると、同じ花材は55種で41~43%である。花材数が増えることによって、異なる花材数が増えたのであろうが、思っていたより共通しない。

『立花正道集』
  『立花正道集』は、天和四年(1684)に刊行されている。「立華正道集に就いて」として、作者とされる「木屋権右衛門は当時立花にしゆろを立て竹の一色物等を生けたが故に池坊から破門された」とある。木屋権右衛門は異色の華道家であり、池坊からの影響もあるだろうが、独自の感覚で花材を選定している可能性がある。
  『立花正道集』に記された花材は、130種ほどでその内122種を現代名に示せた。なお、作者である木屋権右衛門は、シュロを使用したことが「立華正道集に就いて」に示されているが、本文中にないので花材には含めない。
  判断に迷った花材として、「さくろ花」と「ざくろ」がある。同じ植物ではないとして、「さくろ花」はハナザクロ、「ざくろ」はザクロに分けたが、確証はない。
  『立花正道集』と『立花大全』の花材は、園芸古書や『資料別・草木名初見リスト』などから検討して、当時の植物であることは確からしい。両書の花材を対照させると、同じ花材は79種ある。それぞれの花材の59~65%を占め、これまでの中で最も類似している。

『抛入花傳書』
  『抛入花傳書』は、『立花正道集』とは年号では異なるものの、西暦では同年の貞享一年(1684)に刊行された花伝書である。本書は、貞享元年(1681)、中川茂兵衛蔵板と書かれ、十七世紀後半に成立したとある。著者は、十一屋太右衛門とされているが、確証はないようだ。書は三巻に分かれ、抛入花の成立から花材の説明に及んでいる。
  『抛入花傳書』に注目する理由は、巻下の花(植物)のリストに植物名(振り仮名付)と植物の解説が付記されているからだ。その解説は、これまで示してきた花伝書に比べて丁寧で、それを読むと現代の植物名を探るヒントがかなり見つかった。記載された植物の種類は、「根を火に焦して水をあぐる物」として117種、「根を焦さぬ物」52種、その他40種、計209種が列挙されている。さらに、巻上・中にも植物名が記され、それらを加えると210種を超えるが、以下のように園芸種などを除くと種は173ほどになる。
  なお、『抛入花傳書』に記された花材についても、解説を見ても判断に迷う植物がいくつかあり、花材のすべてを現代名にすることはできなかった。まず、「小米花(ここめはな)」がシジミバナであるかということ。『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)によれば、シジミバナの記載は『花譜』で、刊行は1699年(元禄十二年)である。この刊行年は、『抛入花伝書』成立以後となるが、シジミバナは、1681年には花材として使用されていても不思議ではないと判断した。
  紛らわしい名前として、「吉祥草(きちじやうさう)」と「観音草(くわんおんさう)」がある。『大和本草』では、「観音草(きちじゃうさう)」とある。『和漢三才図会』には、「吉祥草」と「観音草」の双方が記されている。『和漢三才図会』に図示されている「観音草」は、ヤブランのように見える。したがって、「吉祥草」はキチジョウソウ、「観音草」はヤブランと判断した。
  その他の花材についても、夏菊類(なつぎくたぐひ)、秋菊、柑類花(かうるゐのはな)、躑躅之類など、個別の種の名ではないものがある。また、キクの園芸品種名「その他の40種」についても、属名である「キク」としてまとめているので除いた。さらに、岡菘(おかこうほね)など不明な植物名がある。
  以上から、『抛入花傳書』に記された花材の173種を現代名した。これら『抛入花傳書』に示された植物は、十七世紀後半の茶会記に登場した茶花の71%をカバーしている。十七世紀後半に登場した茶花で、『抛入花傳書』に記されていない植物は、アブラナエノコログサカザグルマサザンカ、シュウカイドウ、スゲ、ハシバミ、ハンノキ、ヒイラギ、ヒルガオ、マメ、ミズキ、ミツマタロウバイである。この中で茶花として比較的使用されているサザンカがないものの、他の植物は茶花としての使用頻度は低く、シュウカイドウを除けば一度しか登場しない植物である。使用頻度の高い種類を見れば、『抛入花傳書』は茶花の使用動向をかなり反映していると言えよう。
  それでは、園芸書まで範囲を広げて、1700年までに名前の知られていた植物はどのくらいあったのだろうか。当時の園芸書である『花壇地錦抄』(1695年刊行)には、六巻にわたり花卉394品が記されている。さらに詳細には、異品名としてボタン481、シャクヤク104、ツバキ206、キク231、ツツジ169、サツキ163、ウメ48、サクラ46、カエデ23点が記されている。『花壇地錦抄』の植物数は多く、『抛入花傳書』の種類数の二倍以上ある。
  確かに植物の種類は、『花壇地錦抄』の植物より花伝書の花材の方が少なく、茶花の植物はさらに少ないことがわかる。これは、それぞれの分野における植物への関心度の違いによるもので、数字が示すほど大きな違いがないと思われる。たとえば、『花壇地錦抄』ではアサガオを「白あさがお、赤あさがお、浅黄あさがお、るり朝がお、二葉朝がお」と5種に、センノウでも「白仙翁花、赤仙翁花、緋仙翁花、口紅仙翁花」4種に、というように同一種を細分化しているからだ。
  花伝書の花材では、亜種・変種・園芸品種というような段階の名称での表示をせず、それより上の段階の種名(species)で示して、他の名称は重複するので除いている。さらに、茶花の場合は、より大まかな総称(科や属のような)「柳、菊」などと記すことから、茶花名の数は減少する。たとえば、「いのころ柳、柳、水楊、芽はり柳、ユノコ柳、河柳」などと表記された茶花は、一括してヤナギとした。十七世紀後半までの茶人は、花入れには関心が高いが、茶花には「花」としか書かない場合があるように、植物名を正確に示そうとする風潮はあまりなかったようだ。
  その典型として、『江岑宗左茶書』(千宗左監修)には、648もの茶会記が記されているが、茶花が記された茶会記はそのうちの一割にも満たない。茶花の記述も、「寒菊・菊・きく」「椿・白玉」というような示し方で、記された茶花の種類は17種しかない。648の茶会には、茶会記に記されなかったが、実際にはもっと多くの茶花が使用されていたのではなかろうか。茶会記の筆者が茶花に関心が薄いため、わかりやすい植物名しか記さなかったのではと考えたくなる。
  それが、華道で「抛入」が盛んになる元禄年間・十八世紀前半から、茶会数の割に多種類の茶花名が記されるようになる。このような変化は、当時の人々が徐々に植物に対する関心を高めていったことを反映しているためと思われる。宝永七年(1709)に『大和本草』刊行、正徳三年(1713)年頃『和漢三才図会』出版、1735年から1738年頃に『諸国産物帳』が作成されている。また、茶花に使用される植物を多く掲載した『広益地錦抄』(享保四年1719)など、園芸書が数多く刊行されたことも、影響していると思われる。そして、茶花の種類を増やした山野草については、宝暦五年(1755)に『絵本野山草』が出されている。『絵本野山草』には196品が示されおり、刊行年から考えて十八世紀前半の社会的な要請を受けての作成であったと思われる。

『立華指南』
  『立華指南』は、貞享五年(1688)に刊行されたもので、著者は不明である。「頭書立華指南に就て」には「本所以後の花書にして本書に記載せる所を引用せるも多し」とある。これまでの花道古書と異なる点は、立華図にその解説が記されていることである。さらに、「花をならべらし少は畫工のあやまりもあらんか」「りんだうとみえず絵師のあやまりにや」などと、植物が正確に描かれているかという点まで指摘している。
  『立華指南』には、序に続く立華図、「立華指南巻三」の「草木伊呂波分并凡例」の中に、花材が約190種ほどの記されている。その内、175種の現代名を『牧野新日本植物図鑑』と『樹木大図説』から対照させた。なお、花材名には、これまでと同様、マツやヤナギのような総称する名称と共に種名(species)があり、花材として一緒に数えている。
  『立華指南』に示された花材は、十七世紀後半の茶会記に登場した茶花の79%をカバーしている。十七世紀後半に登場した茶花で、『立華指南』に記されていない植物は、アサガオアブラナオウバイカザグルマ、シュウカイドウ、スゲ、ハンノキ、ヒイラギ、ヒルガオ、マメ、ミツマタ、モミ、ロウバイである。茶花の使用頻度上位20位までの植物と比べると、『立華指南』の花材は10位のアサガオと17位のシュウカイドウ以外、90%をカバーしている。さらに30位までに広げても、26種(87%)を含むというように高い割合である。『立華指南』は、十七世紀後半に使用された茶花の使用動向をよく反映している。

  以上、『華道古書集成』第一巻には、花材が350種以上記されており、その316種を現代名にした。
第一巻に記された花道書は、文安二年(1445)の『仙傳抄』から貞享五年(1688)の『立華指南』まで、十五世紀後半から十七世紀後半までの3世紀の花材を示していると言えよう。
政公依御所望三月  以上、『華道古書集成』第二巻には、花材が300程記されており、その276種を現代名にした。第二巻に貞享五年(1688)の『立花秘傳抄』から宝暦七年(1757)の『攅花雑録』まで、十七世紀後半から十八世紀前半までの『華道古書集成』第一巻より後世になったことで、花材数は40程減っている。新しく登場した花材が44種に対し、記されなかった花材は83種ある。第一巻と第二巻に共通する花材は233種、第一巻と第二巻の合計360種である。