ガーデニングでつくられた自然

自然保護のガーデニング13

ガーデニングでつくられた自然
 江戸は、当初から豊かな自然に恵まれていたのだろうか。家康が入国した当時は、城の東側一帯に潮のつかる低湿地が広がり、西南側に広漠とした葦原があったという記述がある。この描写には、多少、誇張があるかもしれないが、十八世紀以降に訪れた西欧人たちが目撃しているような、樹林に覆われた美しい自然環境ではなかったことはほぼ間違いないだろう。
  江戸が改変したのは、家康が入国し、潮入り葦原を埋め立てて、町づくりをはじめてからのことである。江戸の都市整備は、大規模な造成工事をともない、神田山(今の駿河台)の南部の土を使って、外島(中世の前島)の海岸や日比谷入江を埋め立て行なわれた。その後、江戸の町は、築港・運河などの工事、大火の度に進めた町の拡張によって、百万人を超える大都市になっていった。
  注目すべきは、幕府の中心地として、江戸城が築かれ、大名が屋敷を造り、武士たちが住み、町人たちも住むというように、町が整備されるにしたがって、庭園が造られ、樹林も多くなったという点である。つまり、都市整備によって元の地形や植生を大きく改変しているにもかかわらず、野生生物の生息環境は、以前より悪化したかといえば、必ずしもそうではないのだ。
 江戸市中には、ハクチョウ、サギ、ガン、ヒシクイ、バン、キツツキ、ホトトギス、ウグイス、カワセミ、ヒバリ等の鳥類、ウサギ、キツネ、タヌキ、リス、カワウソ等の獣類、また、マツムシ、スズムシ、ホタル等の昆虫類も豊富で、様々な野生生物が見られたようだ。幕末江戸の自然環境は、人為的な植栽、ガーデニングによって、二百年以上の歳月をかけて形成されたものである。
 江戸時代の自然を最も科学的に観察したシーボルトは、数多くの植物を命名した分類学者として知られているが、植生の遷移についても鋭い目を持っていた。彼は長崎から小倉へ旅する間に通った地域の自然について、以前の植物がどのように変化して現在のような植物になったかを解説している。たとえば、穀物や野菜を植えた畑が階段をなしている所は、以前には丈の高い草??カヤ・カルカヤ・チカラシバ・チガヤが生い茂り、シオデ・クズ・ツルウメモドキセンニンソウ・ボタンツリ・サネカズラ・トコロ・ヤマイモ・フナワラソウの蔓性の枝がからみ合っていただろうと、耕作地になる前の植生状況について推測している。
 また、神社・仏閣は、周囲の荒野を切り開いて、大勢の人の手で美しい森に変え、色とりどりのツツジ・ノコギリツバキ・ホソバツバキ・ボタンやすばらしいユリ・ランなどで飾っていると。つまり、シーボルトが目にした植物は、大半が人為的に成立していると判断している。彼は、日本の自然がどのように成立しているかについて、歴史や社会などの状況を踏まえた上で、「近隣のアジア大陸との、特に支那・朝鮮およびもっと南の琉球諸島との千年以上に及ぶ交渉は、日本の植物群を外国のたくさんの有用ならびに観賞植物で豊富にし、人の住んでいる地方の姿は明らかに技術で改良された外来の特色を帯びている」と述べている。
 シーボルトは、江戸時代の自然が数世代にわたる文化的な活動によって、彼の見た時点の特色を得たものととらえている。それは、彼が初め日本原産と聞いていた、モモ、アンズ、リンゴ、ナシ・マルメロ、ザクロなどをはじめとして、多くの植物は外国から入ってきたもので、約五百の有用ないし鑑賞植物のうち半数以上のものが輸入されたものであろうと推測し、彼が実際に見た地域の自然は、大半が人為的な植物によって覆われ、観賞植物、外来植物がかなり占めていると断じた。
 江戸時代に日本を訪れた西洋人が、日本の自然をすべて見たわけではないが、江戸をはじめとする大都市、長崎から江戸までの街道筋などは、著しい人為的な自然の改変が行われていた。また、樹林に覆われ、昔からの森林と思われるような所でも、何らかの人手が入っており、管理されていたものと推測できる。江戸時代の自然は、放置されるどころかガーデニングのようにこまめに手入れされていたと考えられる。