人手の入らぬ土地はない

自然保護のガーデニング15

人手の入らぬ土地はない
  シーボルトは、「五月は、若々しい緑にもえて若いムギが丘をなした畑で希望にみちて立ち上がり、ほんの最近耕したばかりの畑を黄金の縁で飾っていた早熟のナタネは、色あせて重い茎を垂れる。勤勉な農夫は自然の繁殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって山の斜面に階段状の畑をつくりあげている。これは注意深く手入れされた庭園と同じで、外国の旅行者を驚かす千年の文化の成果である」と、『江戸参府随行記』に記している。
 彼は、当時の日本の農業が西欧のそれと比べて、手の入れ方に格段の違いがあることに気づいた。さらに、「山の斜面の下の方では日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、オオムギ・コムギ・ナタネやキャベツの類(タカナ・キョウナ)・カラシ・ハトマメ・エンドウマメ・ダイコン・タマネギなどが一フィートほど離れて一列に栽培されていた。雑草もなく、石ひとつ見当たらない」と観察している。農民が丹念に耕作し、作物一つ一つに全精神をつぎ込んでいるのを見た西欧人にしてみれば、日本の農業がまるで園芸のように感じられたのは、ごく当然のことだろう。
 18世紀中頃に日本を訪れたP・ツュンベリーも、『江戸参府随行記』(高橋文訳)に「私はヨーロッパ人が滅多に入国できないこの国で、長い旅の間に、珍しい未知の植物をたくさん採集することができるであろうと想像していた。しかしこうした望みが、この国ほど当てはずれになった所はない。私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうであろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見いだせないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである」と述べている。
 このような畑には、まったく自然がないように感じられるが、耕している農夫の後ろにはいつも何羽もの白いアオサギがついていた。畑にいる虫を啄んでいる鳥たちは、とても人なつっこい。鳥はその効用のために、狩りをすることが禁じられており、農夫も脅かしたりしないようにしていたのだ。また、「都を流れる川の川岸は、そのままで空けてあることはなく、どこも人が住んでいたり耕作されていたが、そこには、多数のペリカン類(鵜)が棲息しており、道路ぞいの松の木に巣をつくっていた。またカモや他の野鳥も巣をつくっていた」とも、ツュンベリーは書き残した。
イメージ 1 それでは、外国人が深く立ち入れなかった地域、最も自然の恵まれている山林は、どのようになっていたのだろう。たとえば、現在、大半が上信越高原国立公園に指定されている長野県北部の戸隠村について見てみよう。蕎麦の産地として知られる戸隠村は、村内の土地利用の96%が林野で、戸隠高原には今日でも、一千種を越える植物が見られる。また、百二十数種の野鳥が生息する日本三大野鳥の生息地でもある。豊かな自然が残されていることから、江戸時代には人手の加えられていない原生林であったと思うかもしれない。しかし、全く人手の入らないどころか、実は、人間が積極的に利用し続けてきた場所であった。
 江戸時代の農民は、生産や生活に必要なもの、家畜の飼料や堆肥に使う刈敷、燃料などそのほとんどを山林原野から調達していた。身近な裏山だけで賄うことができればよいが、どこの村々も周辺から奥山までを利用していた。このような山林原野の自然を農民たちが利用することを「入会(いりあい)」、またその利用地を「入会地」と呼んだ。入会地では、下草や薪などの採取から、ゼンマイやワラビなどの食料、山蝋や楮などの原料、建築資材、さらには焼き畑まで行なわれるところもあった。したがって、入会地の自然は、農民たちの生活を支えるような形態に改変されていった。
 江戸時代の山は、広重や北斎などの絵に描かれているように下草はきれいに刈り取られていた。戸隠村でも、現在、エゾヤマザクラ、コブシ、レンゲツツジ、スズランなどの咲く飯綱高原は、飯縄山から麓原にいたる場所(現在の国設飯縄高原スキー場から別荘地の周辺)まで利用されていた。さらに、岩山のような戸隠表山(西岳~戸隠山等)周辺をはじめ戸隠全域で、地元の人々は林野の自然を改変しながら利用していた。特に飯縄高原は、居住地に近いこともあって農民たちにとって多大な利用価値があった。
 戸隠山の屏風岩から奈良尾沢までといえば、現代でもなかなか容易に行くことのできない場所であるが、かといって人手がまったく入らない未踏の地というわけではなかった。江戸時代に農民が利用していたことは、『戸隠村誌(『柵村誌』を含む)』書かれた「山論(さんろん)」からうかがい知れる。山論とは、入会地の所属、管理、用益をめぐる争いである。1767年(明和4年)、戸隠山、霧見が嶽、屏風岩から奈良尾沢まで至る地域の境で、戸隠神領と松代領栃原村の間で山論が発生している。これは栃原村の農民が、戸隠神領内に越境して伐苅したり、伐荒したりしたことを戸隠山衆徒総代、松寿院、上野村、奈良尾村民が訴えたものである。
 また、「飯綱山境争論」、17世紀初期(慶長年間)以来、芋井村入山村落(松代真田領、現在長野市)と戸隠村上野・川手部落(戸隠神領)の村民が、双方とも自分たちの入会山だと主張して、両者入り乱れて切り刈りしていたことが背景にあった。この時は幕府の要人を動かした戸隠側の一方的な勝利で、飯綱山全山が戸隠神領となった。しかし、その後も、飯綱山の境界をめぐる争いはなくならず、明治、大正、昭和まで続いた(戸隠村長野市の境界線の位置が、非常に不自然であることからも紛争が絶えなかったことがわかる)。紛争が続いてきたということは、言いかえればそれだけ人々の利用が多かったことにもなるのだが、飯綱高原の豊かな自然は損なわれることはなく、逆に守られてきてと言える。
 入会地としての利用がいかに凄まじかったかは、1688年(貞享5年)に裁許が下った向峠の山論(戸隠村の山論)が物語っている。この向峠は、以前から村落間でいざこざが起こっていた場所であったにもかかわらず、越境して切苅したことをきっかけに起こした争いであった。この騒動では、山論で敗訴した代表者に死刑という重い処罰が下った。このことからもわかるように、農民たちは、たとえ自然に生育している林野の草ですら命がけの争いをしてまで権利を主張しなければならない状況にあった。